信長公記では天沢和尚の話しと、桶狭間の戦いの所で、有名な幸若舞(敦盛)
「人間(じんかん)五十年…」
それと信長が好んで唄った小唄
「死なうは一定、偲び草には何しようぞ、一定騙りおこすよの」
が出てきます。信長の人となりが感じられます。


この敦盛の話しは、平家物語の中に出てきますね。一の谷で平清盛の弟・平敦盛を、やむ無く討った熊谷直実が後に出家する時に、語った言葉で、能の「敦盛」と幸若舞の「敦盛」の演目の元となったお話しです。熊谷直実は武蔵国の武将で桓武平氏です。父・盛方の時に今の熊谷市に所領を得ました。熊谷市には熊谷寺(ゆうこくじ)があり、熊谷直実が開基したお寺になります。

          (JR熊谷駅の熊谷直実公の像)
         (熊谷寺です。入山禁止です)

さて、この熊谷寺ですが、実は一般の人の入山が禁止されています。お寺の敷地には熊谷直実のお墓や、熊谷直実に関わる寺宝がある筈ですが、入れません。熊谷駅の観光案内所でいろいろ聞きましたが、どうやらお寺と熊谷市が仲違いしており、今の住職がおる間は入山できそうもありません。

さて、群馬県前橋市には熊谷直実が開基したお寺があります。天台宗薬師山世尊院泉蔵寺です。今回もノーアポイントで訪れたのですが、ご住職かいらっしゃりお話を伺いました。お寺の由緒によると、建仁3年(1203年)幕府の念仏禁止令により、心の拠り所を失った小屋原の地の領民達は、苦しい生活の中から半銭を浄財として積み、地蔵堂を改修して蓮性(法力房蓮生、熊谷直実)を開山として救いの拠り所を造ったとあります。お寺の本堂の横に歴代住職の霊廟があり中に開山和尚となった熊谷直実のご位牌があるのでご住職から見て行きなさいと言われて、拝見させていただきました。また本堂の前の小さな五輪塔は熊谷直実が討ち取った平敦盛の首塚であるとの事です。群馬に平敦盛の首塚があるとは全く知りませんでした。首が埋まっているかどうかは分かりませんが、遺髪ぐらいは埋めたかも知れませんね。

           (熊谷直実が開基した泉蔵寺)
                      (泉蔵寺開山堂)


                  (熊谷直実のご位牌)
(左の茂みの中に平敦盛の首塚があります)
                      (平敦盛の首塚)

さて泉蔵寺から車で移動する事35分、前橋市より少し北にある北群馬郡吉岡町田中の「桃井塚」に移動しました。
桃井塚は桃井播磨守直常夫妻のお墓と言われています。桃井直常の孫に桃井直詮と言う人がおり、幸若舞を興し桃井幸若丸を名乗りました。桃井直常は南北朝時代の武将で足利一門、上野国群馬郡桃井を領しました。新田義貞の鎌倉幕府討伐に従軍しました。桃井直常は若狭守護、越中守護を補任しましたが、観応の擾乱で足利義直に付き敗戦し逃亡、その後鎌倉公方足利基氏の庇護を受けました。基氏死後も南朝方とし反幕府行動を取ります。桃井直常の没した地はよく分かっていませんが…没年月日は南朝永和2年(1376年)6月2日とあります。奇しくも本能寺の変と同じ日です。

桃井直詮は室町時代に越前国丹生郡西田中で幸若舞を興します。西田中は越前国織田町の二宮剣神社の社領でありました。剣神社の神官は織田家の祖先と言われています。また、桃井家も織田家も斯波家の被官と言う点も奇妙な事に一致してます。

追記
幕末の江戸三大道場、士学館ですが初代桃井春蔵は旧姓は田中で出自は沼津です。もしかしたら北群馬郡吉岡村田中に関係あるかも知れませんね。


                         (桃井塚)
   ( 右が桃井直常、左が室の供養塔です)