光秀の後胤・鈴木家の墓所です。
明智光慶、光秀の側室フサの方のお墓







明智光秀の側室「フサの方」と明智光秀の嫡男・光慶は山崎の合戦の後に上総に落ち延びた伝承があり、お墓が千葉県市原市不入斗(いりやまず)にあります。市原市役所ふるさと文化課の学芸員の人とお話しをさせていただき、資料を入手しました。その資料に基づきお話し致します。

このお話は「市原地方史研究」の中にあり、昭和55年に大室晃氏が書いたものです。市原に鈴木家と言う御家族があり、明智光慶の末裔の方のお話しが書かれています。以下、「市原市地方史研究」から抜粋します。

明智光慶の末裔で分家の鈴木貞男さんの話によると、鈴木家は明智光秀の子孫で、明智光慶が上総に落ち延びた子孫で、七代の時の分家との事。

12代の鈴木千代吉さんの奥方・千代さんの話では、「祖先の書物に、表紙に『年代記』と書いた書物があり桔梗紋がついていた…11代までの系図が書かれていた。」 また 義父の源四郎さんは良く「うちは明智の子孫だ、鯛は腐っても鯛だ」などと言っていたとあります。

また、フサの方と一緒に上総に落ち延びたと言われる斎藤利治の子孫の斎藤徳利氏・斎藤義幸氏の話しでは、
「光秀の本能寺の襲撃軍の中に私の祖先の斎藤蔵之介利治がいた。戦に敗れたら奥方(斎藤氏は妾とは言わず奥方と呼んだ)は上総に逃亡することになっており、私の祖先が護衛することになっていた、蓑を着けて逃げた。上総への途中、利治の父・利満は江戸の戸塚っ原で捕らえられて殺された。奥方は剃髪して尼姿になり、逃亡して助かった。上総への途中、利治と奥方は別れ離れになり、上総に着いた奥方は市原郡不入斗永藤の西光院に入った。利治はその近くの市原郡片又木村に居を構え、慶長15年9月に亡くなった。本能寺の変の時、斎藤利治は黒馬に乗って出陣した。」とあります。恐らく斎藤利三の一族の人だったのでしょう。

さて、光慶とフサの方と言われているお墓を検証します。

光慶のお墓と言われているお墓の下の方には、右から「土岐□重五郎丸歩、母フサ、妻ツ子」と刻まれています。墓石の戒名は右手から、

貞明智佟禅尼

( 悠の上の部分だけの文字)
(イ存)源(王偏の漢字)禅定門

孝(イ存)明貞信女

とあります。それぞれ、フサの方、光慶、光慶の妻・ツ子の戒名です。

左側面に、元和九亥天七月廿三日  土正保元申天五月十二日

とあります。

もうひとつの墓には、下に
「土岐十兵エ  ノリフサ    同妻モン」
とあり、戒名は

明(土編に氐)庵浄入信士
(延宝六戌年十二月廿三日)

貞善妙入信女
(貞享甲子三月十一日)

とあります。フサノリが十兵衛を称したのはやはり、明智光秀の末裔だからでしょう。

この話しはかなり信ぴょう性があると思いました。また、明智光秀は細川藤孝・忠興親子への書簡で

「50日、100日のうちには近江国を平定し、そうしたら、十五郎(光慶)、与一郎(忠興)に引き渡して隠居する」

書いてあり、光慶は若しかしたら征夷大将軍になっていたかもしれないです。市原の鈴木家が明智の嫡流に一番近いのではないかと思いました。