小山から東海道を西上してきた東軍は8/14に福島正則の清洲城に
終結する。家康からの指示が何もなく業を煮やした正則は、
「劫の立替にするつもりか」と激怒した。捨石にされているのでは
無いかと疑ったのである。8/19に家康からの使者が到着し
「諸将がいまだ先端を開かないのは何ゆえか。各々方が敵に手出し
をして向背を明かされれば、内府殿もご出馬なさる」との使者から
の向背を明らかにせよと迫られた東軍の諸将は翌日に軍議を開き
岐阜城をはじめ、西軍に属する美濃の城砦を攻略する事で評議一決
した。

 8/21には池田、浅野、山内、堀尾等の部隊は木曽川の上流から
岐阜を目指し、福島、黒田、細川、加藤、藤堂、田中の部隊は
木曽川の下流から岐阜を目指し出撃した。福島等の部隊は途中
竹ヶ鼻城を陥落させ、夜通しで岐阜を目指した。
8/22に河田の渡し(米野合戦)にて織田方の木造具康、百々綱家に
勝利し、東軍は木曾川を渡った。木造等は米野で一旦支えたまま、
退き秀信の陣する川手村の焔魔堂にてもう一戦するつもりであった
が、打ち合わせどおりに退いて見ると、秀信は既に城内に引き揚げ
た後であった。緒戦の米野の敗戦にて織田方の戦意は一気に低下
していたのである。翌日には大手口、搦手口の双方から東軍の猛攻
を受けて、わずか一日で堅城と言われた岐阜城は陥落したのである。

※うーん。。。これは三成は痛かったでしょうねぇ。
三成も岐阜には援軍を送っており、援軍は瑞龍寺砦、稲葉山砦の
二箇所に分かれて守備をしていたが、東軍の猛攻の前に次々玉砕
と言うか、秀信はどうして篭城しなかったのか・・・

織田秀信の知行は13万5000石。朝鮮出兵の軍役100石にて
5人でも約6500人。しかし遠征ではなく自らの地元での合戦で
すから、10000人近く動員できたと思う。ここに三成からの
援軍約1000人がいるので、岐阜城に篭城して10000人で
篭城戦をしていれば、一週間やそこらは耐えれたのではないだろ
うか?その間に大垣から三成ら西軍の主力部隊の援軍が到着して
いれば美濃の関ヶ原合戦の歴史は大きく変わっただろうな?

野戦で4倍近い相手と堂々と戦うと言うのはかっこいいですけど
歴戦の猛者の武将達と、殆ど合戦を経験していないおぼっちゃんの
織田秀信では野戦なんかしても勝敗は火を見るより明らかですね。
岐阜城に行ったことがあるのですが、ロープウェーで昇らないと
本当にきつい場所ですから、篭城して東軍を一日でも長く岐阜に
釘付けにしておくことが出来れば・・・

西軍にとっては本当に痛い敗戦でしたね。