秀忠へ城を明け渡すと言う約束を信幸に告げた昌幸だが、兵糧を
上田城へ入れ、柵作り等を行い、籠城の準備を急いで行った。
 
 秀忠は約束の4日になっても何の報せも無いので不審に思い、使者を
立てて開城を催促したが、昌幸からの返答は次のような物だった。
「太閤様のご恩忘れがたく、当城に籠りたるうえは、城を枕に討死し名を
後世に留めたく存ずる。願わくば路次のついでに、当城をひと攻め、攻め
て頂きたい」と、先日とはうって変わって一戦覚悟の返事をした。
 
 秀忠は昌幸の引き伸ばし作戦に乗せられた事を激怒し、翌5日に上田城
攻めに踏み切った。徳川軍38000に対し真田軍2500。
兵数のうえでは圧倒的不利な真田軍であるが、昌幸の巧妙な戦法により
徳川軍は攻めきれず、日時のみを浪費するのみでついに上田城を攻め落
とす事は出来なかった。こうしているうちに、上方の状況が急を告げて
きたとみえ、家康が西上していることもあり、秀忠は上田城攻略をあき
らめて11日に小諸を発ち関ヶ原を目指した。
 
 第一次上田合戦に続いての敗北で、徳川の権威は丸つぶれと成ったが、
逆に真田の名声は天下に響き渡った。小諸を南下した秀忠は、難路に
散々悩まされ、16日になって、木曽福島の山村良勝の館に入ったが、
関ヶ原合戦はその前日に家康率いる東軍の勝利となっており、家康より
先に出発をしておきながら、この大事な戦いに間に合わなかったのである。

※真田の大勝利とまでは行かないが、結果的には秀忠が軍勢を引き、
上田を後にしたので真田の勝利と言う事でいいのだと思うが、私は
こう考える。もしも昌幸がここで頑張らずに城を明け渡していたらどうなっていたか?

約束の4日に城を明け渡し、秀忠が6日には小諸を発っていたならば、
家康より少しは早く尾張へ入る事が出来たと思う。そうして東軍が陣を
敷いていた赤坂へ秀忠が着陣もしくは、尾張で家康と合流して、徳川軍
総勢7万?位で大垣へ進軍してきたなら三成はどう動いたか?

裏切り軍を入れても総勢8万人。対する東軍はやる気満々の精鋭部隊
10万以上。数の上でも圧倒的不利になった三成は関ヶ原で戦ったで
あろうか?

もしかすると大阪から輝元が出陣するまで小競り合い等をしながらも、
大垣、赤坂の間にてにらみ合いのまま、一日で合戦が終わるような事は
無かったと思う。

また合戦の日時ががもう少し伸びたならば、大津を攻め落とした
立花宗茂、毛利秀包等のやる気満々の軍勢が3日あれば到着するであろう。
叔父が関ヶ原に着陣したと判れば、秀元は南宮山の山頂で何時ま
でも弁当を食べている訳にも行かない。
また秀包は元々小早川の当主で有った事もあり、小早川家への影響力も
少なからずあるはずだ。

松尾山の山頂に金吾を置いたとしても、麓に毛利、立花、大谷と中山道を
抑える形で総勢4万に以上で中仙道を守備をする形になれば東軍も迂闊に
大阪を目指す訳には行かないだろう。

こう考えると・・・真田の頑張りが西軍の寿命を縮め、その為に真田昌幸
もその地位を失ったのかも知れない。

この歯がゆさが昌幸の心残りとなりその志を引き継いだ幸村が大坂の陣へと
向かわせたのだろうか。