家名を残す為とも言われる真田親子が東西に分かれ、父である
真田昌幸が上田城に篭城し、徳川秀忠と戦い秀忠に足止めをさせ
本決戦である関ヶ原の戦いへ遅参させた有名な戦いです。

 会津征伐の書状を家康から受け取った昌幸は非常に困惑していた。
神川合戦にて家名存亡の危機に、上杉家より絶大な援助を受けた事が
有るので出兵要請に大変困惑していた。しかし豊臣家の為と言われ、
秀吉からの恩義を考えると拒むわけにも行かなかった。上田を発し
信幸に合流し、下野の犬伏に着陣した。その翌日に大坂より3奉行に
よる連署状が届けられた。昌幸は信幸を呼び、幸村を交えてひそかに
協議をした。結果は宇田頼忠からの血縁関係で、三成と義兄弟にあたる
父昌幸と大谷吉継の娘を嫁としている幸村が大坂方につき、徳川方の
本多忠勝の娘で家康の養女を嫁としている信幸が徳川方につくと言う
親子が東西に別れる形となった。また、これにより東西どちらかが
敗れたとしても、真田の家名は残せると言う為でもあった。

※苦肉の決断ですか。三成の空手形を真に受けたとも思えませんし
上杉にも徳川にも大坂にも顔を立てることが出来る策ですね。
昌幸の決断は凄いと思います。

 信幸は、昌幸・幸村が上田へ引き返した事を家康へ報告し、下野の
小山で着陣していた家康は、上方の挙兵に対して自らは東海道、秀忠は
中仙道を通り西上する手はずを決めた。
家康の命を受けて沼田へ戻っていた信幸の元へ、秀忠より書状が届き
「8/24に宇都宮を発ち、小県を攻めるのでそちらで合流するように」
との指示が出された。秀忠は8/24に宇都宮城を出発。榊原康政を先陣に
総勢38000の軍勢で中山道を進み、9/1に軽井沢、9/2に小諸城へ。
上田城を攻める手はずを整えた。

※秀忠の率いる軍勢は、徳川家の主力であったとも言われてます。
家康が関ヶ原へ3万ほど引き連れてましたので、道中で戦になる
可能性の高い秀忠の軍勢を増やしたんですかね?
現代風の野球に例えるなら、秀忠率いる日本代表のチームが、社会人
野球の地方球団の真田チームへ公式戦を申し込む様な形であると思い
ます。また、この試合の条件が上田城市民スタジアムを賭けた公式戦
と言う実に恐ろしい条件で(笑)