千石のブログ

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西暦190年2月、第3次寿春の戦いは灰治軍に軍配があがった。

孫堅軍の韓当、灰治軍張遼の突撃により死亡。

弔い合戦のつもりか、小沛、下邳から孫堅軍部隊が出撃し、寿春での戦いはなおも続いている。

190年5月、コウカイ軍が長安を占領。

190年7月、竜登軍が天水を占領。

レベル超級と言っても槍神や疾走の特技を持つ武将がひとりいれば楽勝だった。

上の勢力図は190年7月現在のもの。

ほとんどの国境の城に3万以上の兵が配置され、簡単に他国の領土を奪うことができなくなりつつある。

次に衝突が起こりそうな地域は竜登軍、コウカイ軍に隣接している伊布軍上庸と、北の蛮族の地である。

コウカイ軍と伊布軍の同盟が終了して半年が経つが、互いの思惑が合致しているため友好関係は続いていた。



コウカイは次の戦略を考えあぐねていた。

兵士数は23万と全勢力のなかで最多だが、中原にいるため、隣国と戦争にでもなれば他国がハイエナのように一斉に寄り集まってきてつぶされる可能性があった。

だから隣国が隙を見せてもこちらから攻めることができないのだ。

危険なタイミングは、竜登軍が董卓軍を平定したときと、灰治軍が孫堅軍を平定したとき。

行き場を失った矛がこちらに向かわないように、策が必要だった。



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191年3月、竜登軍が武威を攻略。

多くの有能な武将が配下に加わる。

この半年、竜登軍と灰治軍は戦に明け暮れ、コウカイ軍と伊布軍は軍備増強に注力した。

灰治軍は激戦が続き兵は消耗していたが、捕虜にした周瑜と夏侯淵が手下に加わり、とにかく武将だけは天下一であった。




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191年4月、ついに黄巾党が壊滅する。

同じ月、コウカイ軍江夏城太守が伊布軍からの勧誘を断り切れず、部下ともども下る。

委任していたいけみの大手柄であった。

丁原軍が滅亡し、伊布軍に天下の英雄、呂布が加入した。



各軍の配下となった武将の能力は以下の通り。

コウカイ軍

顔良

(統率79、武力93、知力42、政治32、魅力53、特技威風 攻撃した相手の気力大きく減少)

張宝

(統率83、武力71、知力81、政治64、魅力82、特技鬼門 妖術と雷を使用可。知力を上げれば……)

荀攸

(統率73、武力25、知力95、政治90、魅力84、特技百出 計略の消費気力1)

竜登軍

韓遂

(統率89、武力70、知力92、政治61、魅力80、特技長駆 騎馬隊の移動力アップ 知力などは董卓時代にブーストされた)

董卓

(統率72、武力84、知力66、政治18、魅力35、特技徴税 金収入アップ)

李儒

(統率61、武力26、知力93、政治75、魅力58、特技徴収 兵糧収入アップ)

龐徳

(統率76、武力90、知力67、政治62、魅力67、特技白馬)

伊布軍

呂布

(統率87、武力100、知力26、政治33、魅力60、特技飛将 あらゆる面で優遇)

魏延

(統率80、武力85、知力71、政治45、魅力41、特技連戦 通常攻撃が2回になることがある)

灰治軍

周瑜

(統率96、武力70、知力95、政治80、魅力92、特技火神)

夏侯淵
(統率87、武力91、知力54、政治61、魅力80、特技急襲 陸で攻撃時反撃されないことがある)



下は191年6月の情勢。
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次回に続く――


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西暦190年1月、少帝が崩御し、劉協が献帝として即位する。

コウカイ軍と伊布軍の同盟が終了し、荊州に緊張が戻ってきた。

馬騰の推挙により竜登軍に馬超が仕官する。

董卓配下の張昭がコウカイとの戦いで焼死するなど、ニュースが目白押しであった。

ここからを第2章と捉え、現状を整理しておこう。



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伊布軍が13国(実質支配の雲南を含む)、コウカイ軍が6国、孫堅軍と灰治軍などが4国を領有している。


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兵と武将はコウカイ軍が最も多いが、コウカイ軍はコウカイが武力88で軍一番の猛将(次は武力85の高順)という、数だけが頼りの弱国である。

伊布軍も同様、国土は広いが武将は弱く、そして数も少ない(武力80以上が武力84の魏延しかいない)。

一方竜登軍は兵と国土の広さでは劣るが、馬超、華雄、甘寧、閻行、馬騰、竜登と強者が揃い、灰治軍には趙雲、黄忠、許褚、文醜、張遼、太史慈、けんじとスターがひしめいている。

孫堅軍には周瑜、孫策が参加し、灰治軍としのぎを削り、北では公孫瓚配下の劉備3兄弟と丁原の息子呂布が小競り合いを続けている。

どうやら冀州は公孫瓚のものとなりそうであるが、どうなるにせよ統一されると劉備3兄弟と呂布が同じ国に属することになるだろう。

何進と黄巾党は衰退著しく、董卓も同時に滅びそうな流れとなっている。



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伊布軍は武将が32と保有国のわりに少なく、これから1年は防備を固めて富国につとめる方針である。

兵は現在15万以上いるので、5万ずつ3方に分けて拠点を守る。

竜登と接する成都では今後も竜登との激戦が予想されるため君主自ら指揮にあたり、副将には攻城のときに特技『射程』が役立つことを考え李典を配置する。
荊州はまだ若い将校である魏延に任せ、東は水軍適性のあるいけみと賀斉が守護する。

13の国と大金を持っているため、1年あれば兵を50万まで増やすことが可能なのだ。




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北に侵攻しようとしていたら、逆に相手が赴いてくれた。

竜登の天水城に董卓軍3万5千が攻めてきたが、竜登軍にとっては好都合だった。

竜登軍は成都など南の国から撤退したことにより、資源が3つの城に集中していた。

漢中と天水には合計8万の兵があり、梓潼も4万の兵が守っている。

攻めてきた董卓軍を殲滅した後、すぐに西涼を奪い、そのまま長安を手に入れるというのが理想であった。


江州で伊布軍に負けた理由は、相手が全力でこちらを攻めることができたからだった。

なぜ全力を出すことができたかというと、コウカイと同盟をしていたから。

まったく同じことをして一泡吹かせてやると、竜登はほくそえんだ。


次回に続く――


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西暦189年4月、霊帝が崩御し小帝が即位した。

現実では何進らが十常侍を誅殺しようと企てているころである。

この世界では竜登と伊布の停戦協定が成立。

成都、建寧、雲南を譲渡するかわりに8ヶ月の停戦という内容だった。

竜登にとって、南で兵を消耗するよりも北に侵攻して長安までを奪う戦略のほうが建設的であり、また伊布にとっても堅牢な成都城で竜登軍の主力と(文字通りの)死闘を繰り広げることはできることなら避けたかった。

こうして伊布は12の城を手にいれ、次は東へと赴くのであった。

ここで伊布軍に初の猛将が加入することになる。

魏延15歳、武力はまだ84。


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189年5月、灰治は再び寿春を攻めていた。

しかし寿春周辺は施設の建設できないぬかるんだ地面ばかりで、騎馬が使えないだけでなく火計もほとんど使えない。

寿春は相当な兵数がなければ落とせないと判断した灰治は、全軍に撤退を命令するのであった。

2度目の戦も敗北し意気消沈する灰治軍だったが、太史慈が加入したことを知り、武将たちは明るさを取り戻すのであった。

※武力TOP20のうちの7人が灰治軍。孫堅軍は4人、竜登軍はふたり、コウカイ軍はひとり、最大勢力の伊布軍はゼロ。




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189年7月、コウカイ軍、汝南に続いて許昌を占領。

8月、竜登の放棄した成都、賊により陥落。

伊布軍、5万の兵で疫病のはびこる柴桑に進軍。

伊布軍は現実の曹操のごとく勢力を急拡大するのであった。




――次回に続く