戦国大名の佐竹義重が織田信長軍に匹敵する3000丁以上の鉄砲隊を組織していた事は今迄、注目されてきませんでした。



イーシューのブログ-佐竹義重の甲冑


          佐竹義重の甲冑


『秋田市立佐竹資料館』に展示されている佐竹義重の冑は「毛虫」を模した形をしています。


佐竹義重が佐竹義昭から家督を継いで十六歳の永禄五年頃(1562年)の常陸、北下総に於ける勢力分布は常陸太田の佐竹氏・水戸の江戸氏・友部の小野崎氏・府中の大掾氏・真壁氏・鹿島氏・小田城の小田氏・江戸崎の土岐氏・下館の水谷氏・綾戸城の山川氏等10氏を超える小領主が覇権を競っており、小領主間の合従連衡次第では何れの小領主が戦国大名に成り上がっても不思議ではない甲乙つけがたい情勢だったと思われます。


此れ迄、若干十六歳の佐竹義重が小領主集団より一歩先んじて後北条氏と比肩される程の戦国大名に成り得た理由に就いて、茨城県史も含め、常陸国の戦国史は謎のまま放置され現在に至っています。


例えば、常陸金山史研究会ホームページによると、佐竹義重の甲冑の兜の前立てに毛虫が使われている理由を次のように記載しています。

一、毛虫は前に進み絶対後退しない。二、毛虫は葉を喰う。そこで葉を喰うという縁起担ぎから戦場での魔除けという意味合い。三、古い発音では、源氏を「けむし」と発音することがある。つまり自分は源氏の正統だという自認を示している。


佐竹義重の兜の前立てについて、何故義重が戦国当時の武将から笑われるような田舎者が付けるような「毛虫の前立て」を採用したかについては諸説あり研究・検証の途上であるのが常陸の戦国史の現状です。


翻って小田原城を本拠として他国者ながら関八州を席巻した北条早雲こと伊勢新九郎長氏や氏綱に就いて静岡大学の小和田哲男氏や下山治久氏等の研究に依って後北条氏は戦国大名中一際目立つ戦国武将として顕彰されてきました。


このブログを契機に「戦国大名・佐竹義重の強さの秘密」が一つでも解明出来るように読者の皆様方からの御意見を頂ければ幸いです。宜しくお願いいたします。