私の先祖は大阪城本丸に穴をあけたかもしれない?
2010/6/18 VOL.2
私の家の菩提寺は清徳寺、浄土宗です。戦災で消失する前は上野駅前あたりにあったそうです。
上野界隈で浄土宗と言えば徳川政権に従属した武家の菩提寺が多く集まったところだそうです。
古地図を見てみると、あったあった!住職の言っていた上野駅前昭和通り裏に。
それが役に立ちました! あとは、過去帳に載っている○○××衛門が何をしていたかを調べること
コレが大変だ!!
私の姓だけで辿って行くと(大変怪しくなるが・・・・・)
大阪冬の陣の膠着した戦況に
業を煮やした家康さんは(寒いし、早く終わりたかったのでしょう)大阪方との和睦のきっかけを探れと命じます。
酒井や榊原は直接淀殿などに脅しをかけたほうが早く決着すると考え、昼夜をたがわず城壁に向けて打っていた石火矢(大型の大砲)や大筒の砲撃をやめ、藤堂高虎などに命じて本丸に居ると言われる淀殿のご一行に向けての砲撃を計画します。
ところが、ご存知のとおり大阪城は川が取り囲み掘りも大きくなかなか近ずけない構造になっていましたが
少し前に、堀の水位を減らすために川の塞き止めをしていたことが役にたち、城の北東側の浅瀬からの砲撃が可能となったのです。
そして、ご存知の如く本丸2層目に見事(まぐれ)に命中!
なんてったって敵の襲撃を覚悟しながら、どこに飛んでゆくか分からない(特に、高い所に向けては、不得意)砲弾を当てようとしたのだから大したもの!
あわてた、淀殿は家康さんの和睦提案を丸呑みします。
この砲撃を直接指揮して成果を(まぐれ)あげたのが家康さんの旗本であった先祖かもしれません。
この後、先祖だったかもしれない
この方は、上野国の小名(大名ではありません・・)に取り立てられたそうです。
この続きは次回とさせて戴きますぞ・・・・・・では、ごめん!!