刀屋さんにいってきました!といっても警察の許可なしのやつです
21・7・2
てなわけで、前回の話はちょっと休題閑話!!
先週、模造刀や美術刀を製造販売している”ゼスト”さんにうかがってきました。
所は、日本橋室町てのは、旧住所で今は日本橋本町と軽い住所名となっていますが、いずれにしても江戸時代ならアップタウンのど真ん中!!
街は、戦前の昭和の雰意気たっぷりの銀行の建物や商社などが立ち並び裏道に入ればしゃれた小料理屋が
点在する町並み・・・
昭和の戦士たちが闊歩する姿が目に見えるようです。
そんな街の一角にゼストさんはひっそりとありました。
むかしの刀匠が表に出ずにひっそりと商いを営んでいたように・・・・
なかに案内されますと、狭いスペースにあるはあるは、信長・謙信・信玄・秀吉・兼継・景勝・海舟・総司
竜馬などなどがずらっと・・・
みな模造刀とはいえずっしりとした手応えがありますので、5~6本も持つと肩こり症状となり
戦国武士の構えが腰をしっかり下げて、蟹股状態になっていることがよく分かります。
ゼストさんが刀を製造している本拠地は、なんと、岐阜の関だそうです。
関といえば戦国の昔から刀剣を造っていて、名刀工を数多く排出している地域です。
その伝統を受け継いでいるのかも知れませんが、ゼストさんの刀は波紋といい反りといいとても再現力が高いと感じました。
自分の好きな武将の刀を持ちながら、その昔にタイムスリップなどをすることを妄想しながら帰途に着きました。
それにしても、あれがほしーーーーい・・・・。
次回は、前回の続きをかたらせていただく。
では、さらば!!
私の先祖は大阪城本丸に穴をあけたかもしれない?
2010/6/18 VOL.2
私の家の菩提寺は清徳寺、浄土宗です。戦災で消失する前は上野駅前あたりにあったそうです。
上野界隈で浄土宗と言えば徳川政権に従属した武家の菩提寺が多く集まったところだそうです。
古地図を見てみると、あったあった!住職の言っていた上野駅前昭和通り裏に。
それが役に立ちました! あとは、過去帳に載っている○○××衛門が何をしていたかを調べること
コレが大変だ!!
私の姓だけで辿って行くと(大変怪しくなるが・・・・・)
大阪冬の陣の膠着した戦況に
業を煮やした家康さんは(寒いし、早く終わりたかったのでしょう)大阪方との和睦のきっかけを探れと命じます。
酒井や榊原は直接淀殿などに脅しをかけたほうが早く決着すると考え、昼夜をたがわず城壁に向けて打っていた石火矢(大型の大砲)や大筒の砲撃をやめ、藤堂高虎などに命じて本丸に居ると言われる淀殿のご一行に向けての砲撃を計画します。
ところが、ご存知のとおり大阪城は川が取り囲み掘りも大きくなかなか近ずけない構造になっていましたが
少し前に、堀の水位を減らすために川の塞き止めをしていたことが役にたち、城の北東側の浅瀬からの砲撃が可能となったのです。
そして、ご存知の如く本丸2層目に見事(まぐれ)に命中!
なんてったって敵の襲撃を覚悟しながら、どこに飛んでゆくか分からない(特に、高い所に向けては、不得意)砲弾を当てようとしたのだから大したもの!
あわてた、淀殿は家康さんの和睦提案を丸呑みします。
この砲撃を直接指揮して成果を(まぐれ)あげたのが家康さんの旗本であった先祖かもしれません。
この後、先祖だったかもしれない
この方は、上野国の小名(大名ではありません・・)に取り立てられたそうです。
この続きは次回とさせて戴きますぞ・・・・・・では、ごめん!!
戦国浪漫人・・・験算!じゃそろばん塾・・見参、見参!
平成21年6月12日、グレゴリオ暦では2009年6月12日金曜日、イスラム暦では1430
年6月18日、ユダヤ暦では2552年6月12日と博学なところがお邪魔な戦国浪漫人のMAC見参です。
今から思えば、20代のころ親からお前の祖父は蒔絵師で祖母は高等小学校の教師、先祖は【さむらい】、おばさんのところは岩槻藩の蘭方医だよ・・・
なんてことを聞いたのがきっかけで、自分のルーツ探しにはまり込んだのが始まりで、それ以来、昭和・
大正・明治・江戸と遡りましたがなんともはや、頼りになったのが地方行政や国ではなく【寺】の過去帳
と言う有様!
何じゃこりゃです。
次のブログからそこからなぜ戦国浪漫人になったかお話をしてゆきたいと思います。
では、さらばでござる。