追悼 | 千賀ゆう子企画×茶のみじごく

千賀ゆう子企画×茶のみじごく

女優・演出家の千賀ゆう子が主催する千賀ゆう子企画。
2014年以降の公演情報を紹介していきます。

公式HP http://senga-unit.sakura.ne.jp/
    (過去の公演情報をご覧頂けます。右下のブログテーマ「new!ホームページURL」からジャンプしてください)

先月25日、DA・M主宰の舞台演出家、大橋宏氏が急逝されました。

千賀ゆう子企画と長年に渡りお付き合い頂き、千賀にとって大切な演出家のお一人でした。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

 

昨年出版された千賀ゆう子追悼文集に大橋氏が寄稿してくださった文章を、以下、掲載させて頂きます。

 

千賀ゆう子企画

 

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ゆう子さん、最後の2つの約束を果たせず、ごめんなさい。

                 舞台演出家 大橋 宏

 

 その一つは、「僕がゆう子さんの家に行き食事を作りご馳走する」ことです。もう数年前になります。ゆう子さんの引っ越し先(野方)が、ぼくが趣味で通う卓球練習場に近かったので、その帰りに遊びに寄るね、と思わず言ってしまいました。でも、体の調子が良くないときは自炊するのが面倒なんだ、と言うのを聞いて、本気でそう答えたのです。以来、ずっと明日こそはと思いつつも、なかなかそれが果たせませんでした。ゆう子さんはグルメだからな。ただ具材に火を通すだけの代物を、ひと様に食べてもらおうなんておこがましい、などとただの怠惰をごまかしていました。ゆう子さんからの毎年の年賀状にそっと添えられた、いつ食べさせてもらえるの? という一筆はぼくの無精正月にカツを入れるのに十分でした。

 でも、実は、ゆう子さんとのサシの鍋つつきを思うと、その時間をしっかりと受け止める自信がぼくにはなかったのかも知れません。これまでにも幾度となく伺ってきた、さまざまなこと。劇団や演劇、家族やプライベートなことなど話は尽きません。ゆう子さんが演劇の道を志し、一途に突き進もうとして招いてきた周囲との摩擦。当時のことだからそこで交わす言葉も過激だったのでしょう。傷つき傷つけ、そのたびに、何かを諦めては体の奥底にギュッと仕まい込んできた幾つものワタシ。その穴を塞ぐためにできてしまった大小のカサブタ。時々それがむず痒くなってくるのでしょう。カサブタが自然ととれるまでは待たなくてはなりません。鍋が美味かろうが不味かろうが、ひと時を一人ではなく共に過ごせればよかっただけなのに。今はただ後悔しています。

 

 そしてもう一つの約束は、「そろそろ、もう一度一緒に舞台を創ろう」でした。そう、ゆう子さんとはもう久しく舞台づくりをしていません。ぼくらが一緒にプロト・シアターで精力的に舞台創作をしたのは90年代初頭から中頃まで。数えると10本の舞台を共にしています。それからしばらく遠のいて2010年のアジア・ミーツ・アジア公演で再び出演してもらったのが、ぼくとの最後の舞台になってしまいました。この間、時折会うと、今度はいつ出させてくれるのよ? とせっつきますが、でも実際は、ゆう子さんが超多忙だったわけです。〈語り〉や〈千賀ゆう子企画〉公演が毎年びっしり入っていて、ぼくが入り込む余地は全くありませんでした。お互いに、それぞれの時間を紡ぎ没頭しながらも、時々互いの仕事を覗いていました。次第に磨きがかかっていくゆう子さんの〈語り世界〉。愛らしさ、可笑しみ、寂しさ、そして狂気とエロス。いくつものワタシが自在に表情と声に現れ出てきます。その時空が、いにしえの世界だからこそ、安心して心身をゆだねることができたのでしょう。最期まで、休む間もなく次々と公演していきましたね。でも、その一つ一つが、体を悪くしてからのゆう子さんの活力になっていったのでしょう。それで、いよいよ容体が悪くなったと聞いて、昨年8月末、江古田病院にお見舞いに伺いました。9月に入ってしまうとアジア・ミーツ・アジアの〈インド・ツアー〉で1ヶ月は来られません。昼過ぎ病室に入ると深く眠っていました。看護婦さんに、ゆすり起されたゆう子さんは、はじめはぼくが誰だか分らなかったみたいです。しばらく、ボーとしていたような。少し話してもちょっと体が辛そうでしたので、お暇しようとすると、目をちょっと下に落として黙ってしまいました。ふたたび腰かけ直してからは、会話もはずみ、久々に演劇の話が一杯できた、とニコニコ喜んでくれました。僕が見た他の舞台をほめたりすると悔しがったりもして。これならまだいけるぞ。ゆう子さん、11月にプロトで一緒に公演しようね。うん、絶対だよ。顔が少しほころんだような。ようやく具体的な約束ができました。でもちょっと声に力がなかったかな。もう自らを悟っていたのでしょうか。それからほどなくして、ゆう子さんは逝ってしまいました。

 

 ゆう子さんと初めて舞台をつくったのは199011月〈千賀ゆう子ソロ「待つ女」シリーズvol.1『夢のさくら』〉でした。それはその前々年から開始されたダム(DAM)の実験公演が回を重ねだしてからのことです。ゆう子さんはその毎回の舞台を見とどけては終演後ちょっとすねたような顔を浮かべて「面白じゃないの」と言ってくれました。『早稲田「新」劇場』時代の観客の多くが離れていくなか、その言葉は大きな励みでした。90年代は、ベルリンの壁崩壊とともに始まり、ソ連が消滅し、湾岸で火の手があがり、世界パラダイムが大きく動きだします。日本ではバブルが消散し、社会が大きな不安に包まれていきます。今へと続く「規制」の網が少しずつ張り巡らされ〝息苦しい時代〟が始まっていくところでした。不確実な時代に舞台がどう応答するのか? 「大きな物語」から「小さな物語」へ、言語優先のドラマツルギーを脱構築しよう。ぼくとダムは、今、ここに立つ等身大の身体から出発する表現を標榜し、断片的な行為・言葉・イメージを舞台上に散乱させて、多元的、多層的、多焦点的な劇空間を構築していきました。一元的な意味解釈に占領されていた舞台に余白の響きを打ち拡げます。公演形態も団体をおろして、個とグループでの公演を毎月のように重ねていきました。全体性よりも多様な個の生成へと。昔風に言えば、解放区とゲリラなのか、その有り様にゆう子さんの〝過激〟が共感したのでしょう。

 ゆう子さんの提案は、すでに明確なビジョンを持っていました。まず基本テーマは、〝待つ女〟です。それを毎年の連作にして春・夏・秋・冬の季節を巡るように回を重ねていく。ソロ公演ですが、毎回ゲスト出演者を呼ぶ(※龍昇、斉木耀、中野耿一郎、ベースの水野俊介(敬称略)各氏に出演いただきました)。テキストは、既存のものから書き下ろしまで多方面から募る。ゆう子さんはコトバが大好物で実に大食漢。実際、回を重ねるごとに沢山の作家さんたちから多種多様なテキストを提供していただきました。演者の身体が異質な言葉の交錯場になっていく。すでに劇団の退団や解散を経験してきたゆう子さん、きっと、ソロ企画で一人になることを選んだのでしょう。その孤独の奥底で未知のコトバと出合う。渇いた孤独を潤すのに自己を掘り下げて、その果てでの、他者たちとの戯れ、かつて断念してきた幾つものワタシとの再会。一人は淋しくない、決して一人ではないのだから。その一期一会を望んだのでしょうか。その偶然に身を放り出したかったのでしょうか。だからとても怖いままに、舞台構成はいつも全部を決めずに半分は未知のままに残して〈即興〉を取り込んでいったのでしょう。

 そして毎年の共同作業が始まりました。でも、ゆう子さん、ちょっと不器用だったですよね。ゴメンナサイ。生意気な演出という目から見るとですが、なにか局面に差し掛かるとちょっと構えてしまう。ワタシをほんの少し固くしてしまいます。古典世界では自在だったのに(いや、そう見せることが出来ていたのに)、現代コトバになると、己との距離が切実に近くなるのか、コトバも己も、どちらも突き放せなくなってしまいます。カサブタの下に息づくワタシの細胞が再生するのを待ちきれずに、ついその強張る表皮を引っ掻いてしまう。そのたびに、またすり傷を増やしカサブタを重ねてしまいます。でも、周囲の誰もが、ゆうこさんのそんなひたむきさが好きだったのです。大好きだったのです。

 押し入れの奥から当時のファイル〈「待つ女」シリーズvol.4『蝉の声』〉(199311月)を見つけ引っ張り出すと、次のような小品が綴じられていました―――

 井崎外枝子「風」「光」

 丹野久美子「夏の日の朝」「白い蛇」「仲良し」

 「陽盛りの街」「桜の罪」「私の罪」

 平田オリザ「幸せ/宮沢賢治」

 石川裕人「ロケットの夏」「夏休み」「蝉の声」

 千賀ゆう子「義父の話」

 吉井仁志「蝉神楽」

 石原吉郎「いちごつぶしのうた」

 井上弘久「あんた」

 斉木耀「大怪獣カメラ」

 佐伯修「九十三歳の女」 ―—―――

 (※他の回では、岸田理生、吉田豊(敬称略)の名前もある)

 

 内容も文体も実にさまざまです。一つ一つが世界の片隅の小さい事柄でも、コトバの一つ一つが現実内部に深く突き刺さっていきます。そのコピーをいつも両手で抱えては取りこぼし、拾って差し替えては、大小いろいろに、口にだしてみる。次から次へと移り変る内的光景を喚起しては、いくつものワタシを舞台の陰日向に住まわせようと試行錯誤していく。そして―――

 よし、今日はここまでかな、少し固さがとれた気がするけど、

大橋君、どう?

 うん、昨日より、だいぶ自由な感じ! けっこう笑えたし

 そう。でも、じゃちょっとゆるすぎたかな~ 硬質性を欠き

くないからね~

 そんなことないよ、もっと崩しても全然大丈夫。芯が抜ける

とないから。

 そう、じゃ明日もっと勇気だして崩してみようかしら。でも、

また明日どうなるか分からないからな~  ―――
と少しはにかんで明日の訪れを希望する。たとえば、固すぎたり柔らかすぎたり、テキスト(意味)は同じでも、表現者はそこに神経を研ぎ澄ますのです。その小さな違いにワタシの生が宿り生き死にするのですから。寄る辺ない反復のなかで、カサブタが自然に落ち、なにかが熟成してくるのを待っていたのでしょう。

シリーズ最終回『蝉の声』は、当時まだ元気でした石川裕人の次の言葉でしめくくられていました―――

「体がモゾモゾしてきたわ」

「俺もだ」

「もうすこしすると地上かもね」

「誰かが呼んでいるんだ」

「季節よ。夏が来ないことなんてないんだから」

「記憶だけの夏だとしても、記憶されていることだけで

 俺たちは地上へ向かい第二の出生を迎える」

「急に元気になったわね」

「『やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声』さ」

 (最後から一つ前のコトバはゆう子さんが棒線をしました)

 

プロトでの共同作業から沢山の夏を迎えて、久々にゆう子さんの舞台を六本木ストライプハウスギャラリーに観に行きました。冒頭、バスケット籠に放り込まれていた幾つもの紙片を取り出し、ある日のピクニックのように自分の前にひろげはじめました。さて、どれから頂こうかしら? とりどりの好物を前にして迷う子供のように一つの紙片を取り上げて、読み始めました。そう、あの時のように。でも、そこにいるのはワタシというゆう子さんそのものでした。そしてまた、次の一枚を取り出しては、よどみなく誰かとのおしゃべりを続けていくのです。赤子のような柔らかい肌が全身を包み込み、すでに憔悴しきっているだろうゆう子さんの全身が、みずみずしく息づいていくのです。朗らかに、甘えたり、すねたり、かと思えば、冷たく淋しく、いつか何処かの孤独の風景にワタシを映しだします。コトバに衝き動かされていくまま、でも、ちょっと危な気に、しかし、臆することのない確かな時間を見定め紡いでいく。そこにはもうあのカサブタは跡形もなく消えていました。

演劇の道を選び、それゆえ引き受けてきた単独者になることへの覚悟と諦め、そして寛容。その積み重ねが、永遠の生を今、ここに、芽生えさせます。

昨年の千賀ゆう子企画公演『桜の森の満開の下』(作・・坂口安吾 脚本・・岸田理生 演出・・笠井賢一 音楽・・竹田賢一 入間川正美)では、虚空を焦がすゆう子さんの生が、若い演者たち一人一人の体をも焦がし東京の夜空に美しく咲いていました。

 

ゆう子さん、一つ質問です。今度一緒に創る舞台どうしましょう?

もちろん、料理はもう少し待っていてね。でも、舞台のほうは、もう「待つ女」じゃないですよね?