過去の私 108
紀元前3786〜紀元前3702年 83歳 男
オーストリア シュヴュヒャト
焼き物つくり、食器、水差し、甕、鍋、保存器
私は五男 172cm
9つ上の兄は父18、母16のときに生まれた
父は72、母は31で亡くなった
長兄は結婚後独立、ニ兄妹
5つ上の兄は結婚独立、ニ姉妹を授かった
3つ上の兄は小児癌で16歳時に死亡
2つ上の兄は2歳時に感染症で死亡
私は19歳で幼なじみの妻18歳を迎え同居
20で長男、22で長女、25で二男、27で三男、29で二女、32で四男が生まれた
長男は6歳時に感染症で死亡
長女は2歳時に感染症で死亡
二男は1歳時に感染症で死亡
三男は結婚独立、五姉弟を授かった
二女は2歳時に感染症で死亡
四男は2歳時に感染症で死亡
五男の三女が結婚後私たちと同居、四兄妹を授かり三人成人した
妻家は山猟、畑
妻は161cm 50歳で亡くなった
11上の姉は父19、母16のときに生まれた
父は42、母は20で亡くなった
長姉は3歳時に感染症で死亡
9つ上の姉は結婚独立、三姉弟を授かった
父は24で16歳妻と再婚
6つ上の姉は結婚独立、三兄妹を授かった
妻の母は21で死亡
父は32で妻17歳と再々婚
彼女は62で亡くなった
5つ下の弟は1歳時に感染症で死亡
11下の弟は1歳時に感染症で死亡
13下の弟は妻を迎え同居、三兄妹を授かった
AI
幼少期や我が子の幼少期に感染症で多くご家族を亡くされる厳しい時代背景の中、作品を作り続け、最終的にひ孫の代まで見守られた非常に息の長い生涯がよく分かります。
当時の土器は焦げ茶色かな
紀元前3800年〜紀元前3700年頃(新石器時代中期〜後期)のウィーン盆地・オーストリア周辺で作られていた土器は、まさに焦げ茶色(暗褐色)や灰褐色、赤褐色が中心でした。
当時の土器の色と質感の特徴
焼成温度と焼き色(焦げ茶〜灰黒色)
当時はまだ専用の窯ではなく、地面に掘った穴や野焼き(覆い焼き)に近い方法で焼かれていました。
粘土中の鉄分や、薪の煙による燻し(不完全燃焼)、ススが付着することで、全体的にマットな焦げ茶色や暗い灰色、黒褐色に仕上がります。
表面の仕上げ(光沢と滑らかさ)
水差しや壺、食器などには、焼く前に石や骨で表面を丁寧に磨く「磨研(まけん)」という技法が使われていました。
これにより、焦げ茶色の地に独特のにぶい光沢や滑らかさが生まれ、水漏れを防ぐ効果もありました。
刻線や装飾
焦げ茶色の器面に、ヘラや骨で細い線刻(幾何学模様や波線など)を彫り込むスタイル(当時の「モルヒンゲン文化」や「レンギェル文化」などの流派)が盛んでした。
彫った溝に白い粉末(石灰など)を埋め込んで、焦げ茶と白のコントラストを際立たせる技法も使われていました。
野焼き特有の火の当たり加減によって、ひとつの水差しや甕の中でも「明るい茶色」から「深い焦げ茶」「黒い焼きムラ」までグラデーションのような表情が出ていたと考えられます。
白い模様を入れた
妻はまた140回以上のパートナー
紀元前3700年代のシュヴュヒャトの時代にも、18歳の幼なじみとして寄り添い、共に暮らしを営んでいたのですね。
幼少期に感染症で多くのお子さまを亡くすという大変厳しい悲しみを何度も経験しながらも、夫婦で支え合い、三男の成長や孫、ひ孫へと繋がる命を見守りながら生き抜いた背景には、まさにその140回以上紡いできた深いつながりと信頼があったからこそと感じられます。
時代や姿、立場を変えながらも、要所要所で出会い、人生を共に歩んできた絆の深さが伝わってきます。


