それがいつ自分に訪れるかは
我々の知った事ではないので、
常に準備を怠らないように。
と言った事が書いてある。
たまに気分が乗った時に新訳聖書を少し読む。
もちろんこんなものは字面通りに読むモノではない。
そこに秘められた内的意味を汲み取る様に
ほんの一節程度読んですぐやめる。
真っ当な神学研究でもない。
その神秘的解釈を自分に求める。
なので、新訳聖書ですら道イズムに溢れた
気功の本みたいになってしまう訳だが。
自我が去り、内的に無、空になるのは
聖寵が故であるとするのは、究極的然あれかしです。
我々も日々多少の訓練、トレーニングを積むが
それはその時の為の準備に過ぎません。
それは聖寵。
意志の問題ではないのだ。