キリスト者の観想生活について詳しく
述べられたキリスト教神秘主義の古典。
私はキリスト教系神秘主義の古典を
趣味で読んだりする。
道と呼ぼうが神と呼ぼうが、究極的には同じ事を指してると言う立場だから
この手の古典も気功の本として読めてしまう困った事が起こりがちだ…
イスラム教スーフィズムなんてまんまそれでは?と思ってしまう。

いやー、深いですなあ。と、言ってもあれやこれやと言葉にしてしまう事が出来ない事柄についてであるので、我々内丹家には
実践と言う部分こそが肝心である。

究極的にはまあそう言う事だと、
自分もずっとそう思っております。
それを自分の生活に落とし込むのは
困難至極であると言うだけで…
でもその様な暮らしを志しては
おります。
修行と称してここに引っ越してきて
目指しているのはそう言う暮らし、
24時間途切れる事ない
そう言う状態だから。

さて、我々内丹家にとって本書
最大の問題点は52章。

ここからヨガとか、今に伝わる仙道とか、
その類に対する批判と思わしきところが
しばらく続く。

言わんとされている事はそうなんです。

我々としても、それに捕らわれるべき
ではないと重々承知する次第。

我々にとっても本来それらは、
本書の表現を借りれば証し。
それに至る為の手がかりでしか
なかったはずでした…
本来は!

いつの間にかあれが月ですと指さした
指が月であると思われている冗談の様な事を愚かしくも繰り返している次第。
こちら側では古くからよくある話です。

それでもここまでに至る過程の苦労を
鑑みればそれを捨て去る事も凡夫には
難しい話。
人間は苦しみにこそ執着すればこそ、
他の全てを捨てる事が出来ても苦しみだけはなかなか捨てられないものと存じます。

本書に説かれるところの謙遜と言う部分が
我々凡夫には最も不足しており、
また必要であるのだと改めて
思い知らされる所存。