在阪中の某外資系宿の周りは、ご覧のように高層ビル群で、散策中は天を見上げてばかりいた。



53年前の大阪の姿はもうそこにはなく、浦島太郎になった気分だ。







大阪駅

中央を闊歩しているのは古女房


だだ広い大阪駅に着き、特に最上階の開放感は開口一番、台中駅に似ているな〜とつぶやく。







これからいよいよ向かう先は、大阪万博記念公園。最大の目的は太陽の塔




到着!


今回この場に来て、1970年当時、万博開催期間中のみ運行され、会場内を環状運転していた、いわゆる万博モノレールに乗ったのを思い出す。そう、あの時確かにモノレールに乗ったのだ。



モノレールに太陽の塔。幼い時の胸の高まりが甦る、甦る、甦る•••




岡本太郎の偉大なる遺産。


53年ぶりに太陽の塔との再会を果たす。


当時幼稚園児のわたくしは、この奇異な塔に非常に強い関心を持ち、食い入るように見ていた。万博で最も強く印象に残っており、至極斬新で今なお魅了して止まない。


岡本太郎は生前こう語っていた。美しく作られたものは芸術ではない。なんだこれは!と唸るほどの奇想天外なものこそ芸術である。


彼の名言、芸術は爆発だは、既成概念や常識を捨てよ。枠からはみ出ろ。自分の殻を破れ。と言っているのだと、わたくしはそう解釈している。



万博で他に印象に残っているのは、最も長蛇の列を成していたアメリカ館の「月の石」と、オーストラリア館の原住民アボリジニが実際に狩に使用するためのブーメランの展示。どれも男の子の好奇心を惹きつける。


あと、やたら海外からの来場者が多かったのを鮮明に覚えている。そのほとんどが欧米人であった。


当時のアジア各国は、まだ海外旅行自由化されていない。台湾においては戒厳令の時代だ。





残念ながら、訪れた日は休園日で園内に入れず。それでも太陽の塔に再会できただけでも幸せだ。



太陽の塔のレジェンドは何年経っても色褪せない。これからも。


我が家に唯一残っている1970大阪万博みやげの太陽の塔ミニレプリカ。


当時他に買ったものにペナントがあったのを記憶している。ボロボロになり残っていないが。そういえば今、どの観光地にもペナントは見かけなくなった。



53年ぶりに、やっとこさ実物の太陽の塔に対面を果たし、再び会えた喜び。当時と今がクロスオーバーする。感慨もひとしおだ。




つづく