12年前の出来事とはいえ、あまりにも強烈な惨事のため、わたくしの脳裏から離れることなく、感覚的にはつい最近のことと思ってしまう。


津波に飲み込まれ、千の風になった元上司、高校の後輩や知人の5名。皆在りし日の笑顔が浮かんでくる。



宮城県庁に追悼献花へ出向いた。



14時46分、沿岸部方向へ正対し黙祷。



今年も当ブログの過去記事から再び震災当時の写真を載せることにした。


これらのなかには、乗り手が津波の犠牲になった車両もあるだろう。


















台湾親族から届いた貴重な貴重な食糧。


当時わたくしは家族を守るため食糧確保に苦慮していた。停電やガレキにより幹線道路が寸断され、物流が軒並み滞っていたのだ。


それが台湾の発送からわずか5日間で届いたので驚いたのは言うまでもない。


あとで聞いた話だが、海外から届いた支援物資に対しては速やかに被災地へ。また、台湾においても東北の被災地への物資輸送は優先的に迅速に行われたという。



震災の年に訪れた台北松山の夜市にて。



あの時、最も暖かい手を差し伸べてくれたのが台湾。


台湾の義に、義をもって恩返ししたいと常々思っているが、わたくし未だに実現していない。