本題に入る前に。


今では考えられないが、37〜8年前までは平日のゴールデンタイムにプロレス中継が行われていた。しかも花金、つまり金曜日の夜8時にである。


わたくしが幼少期から成人になるくらいまでは金曜日夜8時になると、待っていました!とばかりに必ず新日本プロレスの中継(テレ朝系)にチャンネルを合わせ、家族一緒に興奮しながら観ていたものだ。


延髄斬り、コブラツイスト、卍固め、アリキック、ナックルパート等々、数えたらキリがないが、猪木さんの数々の必殺技を今でも鮮明に覚えている。


当時学校では男子の間で技の掛け合いっこが流行り、危険だということで、ついにプロレスごっこは禁止になった。それほどプロレスは男の子に大人気だったのだ。


闘魂注入ビンタ


猪木さんから闘魂注入のビンタされた人たちは、今後事ある毎に思い出し、終生心に刻み続けていくでしょう。


ご存命中にわたくしも力強いビンタを受けたかった。


猪木さん、きっと今頃は天国で、力道山、ジャイアント馬場、モハメッド•アリらと再会を果たし、懐旧談に花を咲かせているだろう。


合掌



さて、本題へ。


今年で92歳の台湾宜蘭に残る日本時代の橋。


昭和5年(1930年)建造。その名は冬山橋


(写真提供、周鼎國さん)

この橋名の読み方は現地北京語のドンシャンチャオではなく、やはり日本語読みの「ふゆやまばし」と呼んだほうが相応しい。しっくりくる。


長さ30m、幅5m。



よくぞここまで保存している。


もちろん数年毎に補強改修はしているだろうが、建造当時の面影をしっかりと残している。


これらの写真は、疫情が落ち着くまでは、わたくしが台湾に来れないだろうからということで、作家で友人の周鼎國さんが気を利かしてくれ、この度送ってきてくれた。


周さんも台湾に残る日本を探している一人で、わたくしにとって現地の貴重な情報源になっている人物。



日本時代当時、この近くに住んでいた湾生(台湾生まれの日本人)が、今この橋を見たら、当時と変わらぬ姿に至極感激すると思う。


戦後数十年ぶりにここへ訪れた湾生がいるはず。ここで過ごした一人一人に歴史があり、彼らの胸中に去来するものは単なる懐かしさだけではないだろう。


わたくしには白黒の動画となって当時橋を行き交う大勢の人々が目に浮かんでくる。着物を着た台湾人と日本人、警察官、背広姿の銀行員等々、皆穏やかな顔をしている。


橋の上で聞こえてくるのは全て日本語。台湾の人たちは、まるで彼らにとって母語のような自然な日本語を話している。


77年前までは紛れもなくここは日本だったのだ。


日本人が去り、フォルモサ(台湾)の人が大切に守りぬく昭和初期の橋。


これだから台湾を愛せずにはいられない。



写真を提供してくれた、スケッチ中の周さん。


日本が残したものを探し求め、台湾全土を巡っている周さん、今日は何処へ出向いているか⋯⋯


わたくしが、いつ渡台できるかまだわからないが、周さんとの再会が待ち遠しい。



冬山橋 宜蘭縣冬山鄉義成路一段與冬山路交接處