わたくしが台湾に関することすべてわかっている訳ではない。


また、地元仙台についても隅々までわかっている訳ではない。


ゆえに今も果てしなくどこまでも追い続けている。





自身が勝手に仙台の小京都と呼んでいる輪王寺。ここはいつ来ても見応えがある。



お気に入りの憩いの場、定禅寺通り


昭和20年7月10日の仙台空襲により定禅寺通り一帯は焦土と化した。


翌年昭和21年から戦後復興事業の一環として定禅寺通りで植林整備が始まり、その際、外地からの引揚者の雇用の受け皿の役目も果たす。


昭和53年宮城県沖地震と平成23年東日本大震災の二度の大震災にも耐え、仙台を見守り続け、まさに戦後復興と震災復興のシンボル的存在。


多くの先人たちが携わった復興事業に思いを馳せ、心して美しいケヤキ並木を練り歩く。



震災の年、2011年の仙台七夕より


命が一瞬にして失った。


高校時代の部活動の一つ下の後輩や元上司などを含め、知り合い5名が津波に飲み込まれた。思い浮かぶのは皆在りし日の笑顔ばかりだ。


特に311大震災以降、地元仙台が愛おしくて愛おしくてたまらない。


かつて、居を再び台湾に構えることも考えたことがあったが、現在地元仙台をベースしているのは、台湾以上に日本を、そして仙台を愛しているからである。他意はない。


もっとも米がうまい!ということも一因ではあるが⋯



仙台松川だるま


青色と太いモフモフ眉毛が特徴で、凛々しい顔をしている。最初から両目が描かれているのは、片目を失明した伊達政宗公に配慮したものといわれる。


今の仙台があるのは政宗公のおかげ。


政宗公がいなかったら•••


藩域の経済とインフラ整備に尽力し、仙台の基礎を作った政宗公。もし政宗公がいなかったら今の仙台の発展はなかっただろう。


また、抜群の集客力を誇る青葉城瑞鳳殿瑞巌寺も存在せず、歴史的名所見所が乏しくなり、宮城仙台の観光魅力度は相当低い結果になっていたはず。


名曲、青葉城恋唄も生まれることはなかった。


令和の現在も仙台を潤す政宗公に感謝🙏




山岡荘八の小説や時代劇に登場する政宗公のスペイン人側室マリア。


マリアなる人物が実在したかどうかは架空の域を脱しない。


しかしながら、当時政宗公は南蛮貿易を強く推し進めようと宣教師をはじめスペイン人たちと深く関わりを持っていたことは事実であり、


これらはスペイン人の側室がいてもおかしくはないと感じさせるには十分の史実背景であり、金髪美女が政宗公のそばにいても全然不自然さはない。


なんとも人々を惹きつけて止まないオラが街仙台の殿様だ。



台湾に残る日本を探す


新竹駅


日本統治時代の1913年(大正2年)建造。台湾に現存する最古の駅舎


設計者の松崎万長(まつがさき•つむなが)は、仙台の七十七銀行本店(残念ながら現存せず)も設計にあたったことから仙台人のわたくしは氏に対し親近感を覚える。



日本製津田型ポンプ。膨湖島にて。


膨湖、緑島、金門へと台湾離島も数々行ったが、主要離島のうち、まだ馬祖へは渡っていない。


馬祖には日本が残していったものが存在するか定かではないが、この目で確かめたい。この島は金門と同様、台湾本土よりも中共大陸に近いが、台湾が実効支配している。



過去記事で何度も同様なことを書いているが、わたくしは台湾で台湾そのものを追っているのではなく、実は日本を探している。


幸い台湾には日本が残していったものが数多く存在しており、大いにわたくしの探究心を刺激する。



九州ほどの国土に起伏に富む地形と雄大な大自然もまた魅力のひとつ。

蘇花舊路から太平洋を望む。



牧歌的な日月潭は、まるで水墨画の世界を成している。動画を拡大してご覧いただきたい。


日本時代、ここに水力発電所が建設され、戦後台湾側に引き継がれてからも大きな役割を果たし、現在台湾の水力発電量全体の半分以上を担う。


先人たちは当時、日本本土と変わらないインフラを整えようを粉骨砕身惜しみなく台湾に注いでいたことが伺える。



どこもかしこもオートバイだらけで排ガスが充満し、まことに空気悪し。

元々はオートバイ好きだったが、台湾生活で現地ライダーたちの傍若無人、我が物顔の荒い運転にホトホト参り、ついにはオートバイ嫌いになった。


写真のとおりスクーター軍団による「そんなの関係ねぇ」とばかりに排ガス撒き散らし放題で、とんでもなく空気が悪いのにも閉口した。


なんたって人口よりもオートバイの数のほうが多い。(1人で複数台所有)


☆日本時代の影響を受け、台湾でもそのまま日本語でオートバイ歐兜邁)と言えば通じる🏍



人生とはわからないものである。


台湾ですっかりオートバイ嫌いになり、帰国してからもずっと乗ることはなかった。


ところが、リサイクル屋で偶然にも高校時代の愛車ヤマハGT50と同タイプのものを発見し、ふつふつと10代の青春時代がよみがえった。


それからはオートバイが気になる毎日。また乗るんだったら当初は原付50CCで十分だろうと考えていた。


しかし、時はすでに原付50CCは二段階右折せよと道交法が改正されていた。冗談抜きで、それまでその事実をまったく知らなく、浦島太郎状態であった。


二段階右折、そんな七面倒なことは受け入れ難く、それならもっと上の排気量を目指そうということで、50歳過ぎて自動車学校へ通い、中型自動二輪免許を取得した。


五十路の手習いという気持ちで通った自動車学校。

卒検合格直後、教官に頼み込んで撮ってもらった一枚。

(エンジンはかけず、スタンドを立てたまま)


中免を取って思ったのは、自分は車派ではなく、断然オートバイ派だったこと。台湾で一時期嫌いにはなったが、五十路になって再び乗ることができ、喜びもひとしおだ。


少し大袈裟かもしれないが、青春を取り戻した気分だ。五十路の手習いの次は、五十路の青春が待っていたのだから。



この先も好きなことを追い続け、知りたいものを探し続ける。熱意を込めて。


普段、あまりロックは聴かないが、BUMP OF CHICKENの「天体観測」は、特段のお気に入りで、歌詞の一節がわたくしの心情をよく表している。


見えないものを見ようとして、望遠鏡を覗き込んだ


知らないものを知ろうとして、望遠鏡を覗き込んだ


気がつけば、いつだってひたすら何か探している


見えてるものを見落として、望遠鏡をまた担いで



台湾と仙台の二つを追い、時には二つがリンクし合い、同時進行で探求している。


現在、ウイルスが絶えず変化し、日々一進一退の終わりの見えない疫病。


防疫を万全にしながら、歩みを前へ前へ進めなくてはならない。と、自分に発破をかける。