過去記事の加筆再アップです。
(2012年6月6日付けより)




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金門島。
中共からわずか2,3kmしか離れていない。






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中共軍車両の上陸を阻止するバリケード。





昨年私は、中国大陸と近接し、台湾が実効支配する金門島へ上陸を果たしたが、

今回その金門島行きの背中を押してくれた方と会う。

また、台湾軍の基礎を作った日本人軍事顧問団「白団」(バイトゥアン)の
足跡をたどっている私にとって、情報の最も拠り所としている方である。





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「自衛隊 秘密諜報機関 青桐の戦士と呼ばれて」

著者:阿尾博政(あお・ひろまさ)





阿尾さんの横顔については、昨年12月の記事で載せていますが、
初めてご覧になる方もいるので、重複して書きます。

1930年富山県生まれ。
陸上自衛隊きっての精鋭部隊、千葉県習志野の“第一空挺団”勤務を経て、
旧陸軍の諜報機関“陸軍中野学校”を前身とする自衛隊の諜報機関“陸上自衛隊調査学校”を卒業。


1972年、台湾へ派遣される。 
1982年、台湾政府の大陸工作会の一員として、中国大陸での諜報活動を開始。


当時、台湾と中共は、緊張関係にあり、台湾人が容易に中共へ入国できる時代情勢ではなかった。

そこで、日本人である阿尾さんに白羽の矢が立ち、日台両国の命を受け、大陸での諜報活動を行った。


定年除隊後も台湾に居を構え、
現在「日台経済人の会」理事長を務める。


著書には、1949年10月、金門島へ上陸した中国人民解放軍(中共軍)との戦闘において、作戦立案し、中共軍を殲滅させ、
島民を救った旧帝国陸軍根本博中将と、台湾軍の基礎を作った日本人軍事顧問団「白団」についても詳細に記述されている。


昔、台湾留学中に「白団」の存在を知るも、卒業後はすっかりそのことを忘れかけていたが、

この本で再び私の探究心が呼び起され、ついに昨年6月、金門島行きが実現したわけである。




本が出版される以前から、阿尾さんとは会っていたが、
まさか、かつて諜報員だったとは、この本が出るまでは、つゆも知らなかった。

それからが、阿尾さんへの金門島や白団に関する質問攻めが始まり、今日に至っている。




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中央が蒋介石。
その蒋介石の右隣りが白団の団長を務めた旧帝国陸軍第23軍参謀長、富田直亮(とみた・なおすけ)少将である。

白団の活動期間は1949年~69年の20年間。
白団解散後も、台湾に住み続けた富田は、1979年死去(79歳)。
本人の遺言により、日本と台湾に分骨される。

私は今年の旧正月時、団長が眠る樹林市・海明寺へ墓参したが、
日本人が来たということで、住職はわざわざ納骨堂まで案内してくれた。

白団解散後も富田が台湾に残ったことにより、のちに台湾へ派遣された阿尾さんと接触することになる。

私が阿尾さんに対して、白団についての情報を最も拠り所とする理由がそこにある。


軍再建以外に白団が行ったのは、なんと台湾の経済、公共事業強化である。

退役軍人の受け皿としている榮民工程處に電力、石油、造船、鉄鋼、製塩など130もの事業所を立ち上げた。

阿尾さん曰く、軍事顧問としての白団はクローズアップされているが、
彼らが行った台湾の経済強化事業については、あまり世に知られていない 。


日本語と北京語•••••
ふと思ったのは、白団と台湾軍部サイドは、どうやって意思疎通を図っていたのか、これを阿尾さんに聞いてみた。

白団の面々には、旧陸軍中野学校出身者や、支那へ駐屯経験者が多く、支那通が揃い、北京語が堪能だった。

中には、支那人と間違えるほどネイティブ並みに話す団員もいたという。

また、台湾軍上層部には、戦前の日本留学組や、日本が統治していた満州の出身者が多く、

加えて台湾本省人は日本教育を受けているので、言葉の問題はなかったという。





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阿尾さんとツーショット。
今年82歳とは思えないエネルギッシュな方。

んん… 私は台湾で連日暴飲暴食で太ってしまったな。




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阿尾さんがかぶっている陸上自衛隊第一空挺団の帽子。

阿尾さんとの話はまことに尽きない。
ここで次回までのお開きとなった。


阿尾さん、今回もありがとうございました。

次回、またよろしくお願い致します。

お身体、どうぞご自愛くださいませ。




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