
○ 予定がことごとくつぶれ、しばらく行っていない田舎、屋敷の草はジャングル化しているのでは、シルバーウイークには息子を駆り
立て草刈りに専念しよう。一時の田舎暮らしを楽しみながら。(中座敷の襖)
解けない疑問
◇
全ての物に“魂(たまし)”が宿る。
いわゆる自然界の万物に宿り霊的働きをすると考えられる“魂”、
絵でもコケシでも能面でも刀剣でも描いた人の、創った人の思いが刻まれ、
その思いが深ければ深いほど究極の出来栄えとして、
見る人の、扱う人の心を魅了し虜(とりこ)にする。
静物に“魂”が宿る霊的働きの顕現と言えよう。
◇
そして“智情意の働きを可能にし、その心的経験の一切を内包しつつ
進化の過程を辿り行く心的統一体”である“霊魂”なる“魂”がある。
“智情意の働き”“心的経験”“進化の過程”から
これは明らかに躍動する生物の人間を対象としているのだろう。
◇
“心霊”“霊”“霊魂”“魂” そして“生命”“生命力”とは、
この世に存在する万物の日々生き活動する「生物」とは何か、
そして一方の静物「無生物」とは何か、
この躍動する生命(生命力)を思う時、その違いは何か。
ベールの中の神秘を覗いてみたい。
◇
おかしなことに、時同じくして一つの本に出会った。
「生物と無生物のあいだ」講談社 現代新書 福岡伸一著(740円)
この本は枝葉を付けたバランスの大樹、書下ろし調で非常に面白い。
本書の一文をご紹介する。
ウイルスは生物か?
ウイルスを初めて電子顕微鏡下で捉えた科学者たちは不思議な灌漑(かんがい)に包
まれたに違いない。
ウイルスはこれまで彼らが知っていたどのような病原体とも異なって、非常に整った
風貌をしていたからである。
斉一的すぎるとさえいってもよかった。
科学者は病原体に限らず、細胞一般をウエットで柔らかな、大まかな形はあれど、
それぞれが微妙に異なる、脆弱な球体と捉えている。
ところがウイルスは違っていた。それはちょうどエッシャーの描く造形のように、
優れて幾何学的な美しさをもっていた。
あるものは正二十面体の如き多角立方体、あるものは繭(まゆ)状のユニットが、
らせん状に積み重なった構造体、またあるものは無人火星探査機のようなメカニカル
な構成。そして同じ種類のウイルスはまったく同じ形をしていた。
そこには大小や個性といった偏差がないのである。
なぜか。
それはウイルスが、生物ではなく限りなく物質に近い存在だったからである。
ウイルスは栄養を摂取することがない。呼吸もしない。
もちろん二酸化炭素を出すことも老廃物を排泄することもない。
つまり一切の代謝を行っていない。
ウイルスを、混じり物がない純粋な状態にまで精製し、特殊な条件で濃縮すると、
「結晶化」することができる。
これはウエットで不定形の細胞ではまったく考えられないことである。
結晶は同じ構造を持つ単位が規則正しく充填(じゅうてん)されて初めて生成する。
つまり、この点でもウイルスは、鉱物に似たまぎれもない物質なのである。
ウイルスの幾何学性は、タンパク質が規則正しく配置された甲殻(こうかく)に
由来している。ウイルスは機械世界からやってきたミクロなプラモデルのようだ。
しかし、ウイルスをして単なる物質から一線を画している唯一の、そして最大の特性
がある。
それはウイルスが自らを増やせるということだ。ウイルスは自己複製能力を持つ。
ウイルスのこの能力は、タンパク質の甲殻の内部に鎮座する単一の分子に担保されて
いる。核酸=DNAもしくはRNAである。
ウイルスが自己を複製する様相はまさしくエイリアンさながらである。ウイルスは単
独では何もできない。ウイルスは細胞に寄生することによってのみ複製する。ウイル
スはまず、惑星に不時着するように、そのメカニカルな粒子を宿主となる細胞の表面
に付着させる。その接着点から細胞の内部に向かって自身のDNAを注入する。
そのDNAには、ウイルスを構築するのに必要な情報が書き込まれている。宿主細胞は
何も知らず、その外来DNAを自分の一部だと勘違いして複製を行う一方、DNA情報を
もとにせっせとウイルスの部材を作り出す。
細胞内でそれらが再構成されて次々とウイルスが生産される。
それら新たに作り出されたウイルスはまもなく細胞膜を破壊して一斉に外に飛び出
す。ウイルスは生物と無生物のあいだをたゆたう何者かである。
もし生命を「自己複製るもの」と定義するなら、ウイルスはまぎれもなく生命体であ
る。ウイルスが細胞に取り付いてそのシステムを乗っ取り、自ら増やす様相は、さな
がら寄生虫とまったくかわるところがない。しかしウイルス粒子単体を眺めれば、そ
れは無機的で、硬質の機械的オブジェにすぎず、そこには生命の律動はない。
ウイルスを生物とするか無生物とするかは長らく論争の的であった。いまだに決着し
ていないといってよい。
それはとりもなおさず生命とは何かを定義する論争でもあるからだ。
本稿の目的もまたそこにある。
生物と無生物のあいだには一体どのような界面があるのだろうか。
私はそれを今一度、定義しなおしてみたい。
如何でしたでしょうか。
拙速に結果を求める世相の中で一息入れて楽しんでいただけたでしょうか。