大震災の現実 その3、見るも無残、鷺の舞う田園、岡田 | アカデミー主宰のブログ

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ライブ動画も掲載しました。検索は、ユーチューブで「仙台ミュージカルアカデミーライブ&発表会、花は咲く 荒浜」です。

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 4日目の朝がやってきた。
 夜は電気がないので真っ暗なゴーストタウンのような街並みだけれど、中心部は少しずつ明かりが灯り始めていた。しかし、私の家のある若林区は被害が甚大で、復旧には時間がかかる模様、夜は暗がりでの生活なので何もできない。ガスもないので、風呂にも入れない。仕方なくカセットコンロで湯を沸かし、温かい湯で顔を洗い、体を拭くのが関の山、それでも少しは気持ち良く寝られるようになった。携帯ラジオだけが頼りで、震災の報道を聞きながら、早めに眠りに着いたが、時折、余震が襲ってくる。今では余り驚かなくなり、じっと鎮まるのを待っている。
 朝は起きてすぐに、駅前の姉のマンションに行くようになった。今迄、8階まで階段を上っていたが、今日はエレベーターが動いていた。その便利さを実感しながら、姉の家で朝食をとっていた。姉の家は、食材を多く買い置きしていたのか、様々な料理を出してくれた。朝の味噌汁が、これほど美味しいものかと実感しながら、「豊かな」食生活を堪能していた。姉のマンションは、8階にあるので、余震でもゆっくり大きく揺れる気がした。洋服ダンスは全て倒れ、和ダンスや本棚、全て横倒し、冷蔵庫や食器棚も倒れ、瀬戸物、ガラス類は全て粉々になっていた。自分の家の惨状よりも凄いと感じた。恐らく8階の揺れは物凄かったのだろうと思った。
 姉の夫はトイレに入っていて無事だった。部屋にいたら、恐らく倒れた家具の下敷きになっていたことは容易に想像できた。これも今回の奇跡なのかも知れないと思った。姉は近くの喫茶店にいて助かった。本当に偶然とは不思議な物である。
 多賀城の兄夫婦の家も、海からは結構近いが、国道45号線の若干北側の団地にありこれも難を免れることができた。
 今日多賀城に行ってみたら、何と多賀城の街並みも国道45号線まで瓦礫の山と化していた。凄い津波が襲って来たようであったが、ほんの数百メートルの差で、津波の猛威から逃れることができた。みんな無事でよかった。メール交換しながらそのことを感じていた。
 姉の家で温かい朝食を頂いて、早速今日の活動に取り掛かった。姉は自分の段取りで片付けるということで、私は自分の課題に取り組んだ。
 家での片付けは、大体終了したが、物置から勝手口に入る所が倒れていたので、そこを片付けて勝手口から家に入れるようにした。その他、数日間で出たガラス類やゴミ類を全て整理して表に出し、ゴミの回収に出す準備してから、また自分の取材活動に入った。昼食は簡単な食事を家で作って済ませることにした。お好み焼きやラーメン程度の食事で済ませることが多くなった。
 今日は4日目、月曜でみんな動き出していたが、姉の家のテレビでは、全ての学校が休校になり、まだ社会生活がマヒした状態であることを告げていた。 
 店もどこも開いていないし、僅かに開けた店には、延延と行列が出来ていた。ガソリンや灯油が不足して、スタンドに車が並んでいる。数百メートル、いやそれ以上の車の列が出来ている。どこに行っても、凄い買い物難民の世界が広がっていた。
 舟がどこにいったのかさえ分からないし、係留地にも近づけないことはわっていたが、やはり車は、その方面を目指していた。前は岡田小学校前で引き返してしまったが、今日は別なルートを通って入って行った。泥水の道路をかき分けながら、昨日より奥に入ることは出来た。仙台港から亘理に抜ける県道、「塩釜亘理線」まで出ることができた。この道は、閖上の朝市からの帰りに通る、通い馴れた道路である。その緑豊かな見慣れた光景が、おそましいような光景に変わっていた。ここがどこなのかもわからない程の変わりようであった。道路沿いのセブンイレブンが、津波の直撃を受けて無残に打ち砕かれていた。この集落のどの家も立っているだけがやっといった状態で、瓦礫と化していた。 
 ここが蒲生公園の背後に広がる緑豊かな地域、鷺の舞う岡田なのかと、一瞬目を疑っていた。それほど周りの風景は色彩の無い、がれ場の風景に変わり果てていた。
 先日河川敷の清掃で、先頭に立ってがんばっていた、この地域の有力者のおじさんの豪邸があったが、見るも無残、津波に襲われ、恐ろしいようなたたずまいになっていた。それでも豪華な入母屋造りの屋根と新築後間もない本宅だけは、かろうじて建っているような状況である。近くにいた方に消息をきいた。危うく難を逃れ助かった模様、ほっと胸をなでおろしていた。
 それでもこの集落の変わりようは、物凄かった。海岸から約1000メートル以上もあるこの岡田の集落は、ほとんど壊滅の様相さえしていた。さらに奥の蒲生公園や、舟が係留されていた河川敷近くの七北田川の右岸、南側に広がる南蒲生の集落には、入ることができないほど、瓦礫によって道路が完全に塞がれていた。
 私は見慣れた「塩釜亘理線」の変わり果てた県道を南北に移動しながら、津波に襲われた地域の惨状を見つめていた。たくさんの消防団員が集団で動きながら、行方不明者の捜索を行っていた。
 隣の荒浜までは、まだ水が深くて行くことができない。岡田の外れで完全に道路が塞がれていた。荒浜は、これよりずっと海岸に近い所に集落があったが、全て流されて跡形もなくなっているとのこと、海岸には数百の遺体が発見されたが、余震が激しくまだ収容されていない。突然襲った津波に、逃げる場所を失い、のみ込まれてしまったのだろう。学校に避難した人たちも3階まで水が上がり、せっかく避難した人も津波にのみ込まれてしまった人もいるとか。
 低学年の児童は、下校後に津波に襲われ、多くは逃げることができなかったのかも知れない。
果たして荒浜の人々は、どれだけ避難することができたのであろうか。全く平らな平地で、どこにも逃げる場所がない集落、小学校だけが鉄筋の建物、そんな集落でどんなことが起きていたのか、想像するだけで恐ろしくなる気がする。
 荒浜までは、1000m以上離れた岡田の惨状を見ながら、私は今回の大地震と巨大津波の恐ろしさを改めて感じていた。私の知っている豊かで長閑な緑の大地は、完全に消えてしまっていたのである。
 傷心の思いで岡田の野面を戻りながら、いかに奥まで大津波が押し寄せたかを想像することができた。
そして、海岸から数キロ西の高速道路のインターチェンジの土手まで、すっかり田んぼを水が埋め尽くしていた。道路という道路は泥だらけで、まるで昔の田んぼのあぜ道のような光景になっていた。
 報道によれば、10キロ奥の若林区役所まで津波が押し寄せたとあった。灌漑用水のための荒浜から続く「七郷掘」を上ってきたらしい。田んぼを一面の水で埋め尽くした地域は、恐らく岡田や七郷の地域まで、約5km以上は入りこんだ一帯ではないかと思われた。広大な緑の田園で大穀倉地帯の仙台平野は、大津波の泥水によって、すっかり覆い尽くされていた。
 今迄こんなことは「予想だに」できなかった。防災計画の視野を遥かに超えている状況であった。
昔から先祖が築き守り育てて来た緑の大地、仙台平野が、海岸から5kmあたりまで大津波にのみ込まれたのである。
 宮城県の海岸線にある町や村、岩手県の三陸海岸から福島県の砂浜海岸まで、幾十の町や村が、大津波に襲われ、壊滅的な状態になっていることが、段々明らかになってきた時であった。
電気もなく、テレビもなく、ラジオしかない状況で、あまり確かに知ることができなかったが、どこの町も村も壊滅的な被害であることは、この風景から容易に想像することができた。
 荒浜の南には閖上の浜、名取や仙台空港のある岩沼、亘理、山元、そして福島県に連なる海岸線の町並み、荒花から北へ蒲生、仙台港、多賀城、七ヶ浜、塩釜、松島、東松島、石巻、牡鹿の浜、そしてリアスの三陸海岸の町や村、どれだけ多くの人々が暮らしていたことであろうか。一瞬の巨大大津波によって、全てを破壊され尽くした姿が、そこには累々と横たわっているような気がした。
 見るも無残な蒲生や岡田の瓦礫の山と化した風景の奥に、巨大な大津波が破壊尽くした全ての光景が、どこまでも広がっているような気がした。
 そしてそこには、私が馴染んだ様々な自然と風景、そこに暮らす多くの人々の姿や映像が重なり、走馬灯のようによみがえっては、消えていくように思われた。