震災ルポ⑮ 七ヶ浜の惨状と塩釜の朝市へ(2011年4月3日記述) | アカデミー主宰のブログ

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震災ルポ⑮ 七ヶ浜の惨状と塩釜の朝市へ(201143日記述)



今日は、朝からお手伝いさんと2階の倉庫の整理を始めました。昨日、文房具屋からダンボール10個を頂いてきたからです。地震で崩れてしまった書籍や資料などを片付けながらダンボールに入れて積み上げていきました。ダンボール10個分を整理した所で、今日の分は終了しました。まだまだ整理が出来ていないので、ダンボールが必要です。また貰ってくることにしました。

 午前の活動が終了した所で、塩釜の朝市に買い物に行くことにしました。地震発生以来塩釜には行っていなかったので、今の状況も見てきたいと思いました。昼食は食べないで、塩釜の「しおかぜ通り」で朝市をやっていることをお手伝いさんに聞いたので、見分を含めて買い物に行きました。途中、多賀城からその東側、太平洋に突き出た半島部の七ヶ浜町を回ってから行きました。

海水浴で有名な菖蒲田浜は、遠浅の海岸で、仙台近郊の海水浴場としては、最も有名な海岸でしたが、大津波によって集落が全て壊滅していました。

思い出の美しい海岸は、全て大津波によって打ち砕かれていました。大きな松の木もなぎ倒され無残な姿を見せていました。七ヶ浜の他の幾つかの浜辺を見て行きましたが、全ての海に面した港や浜は、全て壊滅の状態でした。

まさかこんな状況になっているとは、本当にびっくりしました。宮城の海岸線は、どこに行っても、ほとんど同じ状態です。今回の津波でほとんど壊滅の状態になっていました。

塩釜の「しおかぜ通り」朝市は、震災後3週間なのに、がんばってやっていました。回りはまだ瓦礫の山が積み上げられていますが、そんな中でもテントを張って、様々な物を売っていました。市価よりも安く販売しており、野菜や卵などをたくさん買い込んで帰りました。まだ開店出来ない大型ショッピングモールの前でのテントでの販売開始でした。昼すぎの時間帯でしたが、予想していたより人出が少なかったです。塩釜港の海がすぐそばにあり、潮風が嫌に強く感じられました。

塩釜の街中を巡りながら、有名な酒造本元「浦霞」の蔵も見てきましたが、外見からはほとんど無傷のようで、風格ある佇まいをみせていました。塩釜の酒造りの人々も、復興に向けて頑張っているのだと実感しました。日本的な蔵造りのたたずまいに、何か癒された感じがしました。

帰りは国道45号線を、多賀城を通って帰りました。随分車が多くなって、所々で渋滞が発生していました。燃料難民の行列も所々にありましたが、以前よりは少なくなってきた感じがします。でも緊急車両だけに制限しているスタンドがまだ多いように思われました。帰りに、昨日ダンボールを頂いた文房具屋に寄って、コピー用紙を購入しながら、また10個のダンボールを頂いて帰りました。

帰ってから風呂に行くことにしました。今日は一人で出発、昨日行った所は、長い行列があったのでパスして、もう1件の銭湯に行ったら、3月末で廃業していました。先日この銭湯に入ったばかりなのに、3月末で廃業でした。結構綺麗でいい銭湯だったのに、残念に思いました。今のこの状況の中では、物凄い需要があるので、もう少し続けてほしいと思いましたが、3月末で廃業する旨が掲示されていました。銭湯事情は、知らない部分で厳しいものがあるのだと思いました。

仕方なく、そのまま秋保温泉まで直行しました。待っているなら温泉に直行した方が早いです。熱いお湯の温泉に入りました。みんな肌が真っ赤になるほど温まっていました。と言うよりこの共同浴場は熱いお湯で有名です。大体4345度程度の源泉かけ流しの温泉なので、誰でもすぐに肌が真っ赤になるのです。最初は熱くて大変ですが、入ると慣れてくるから不思議です。やはり秋保温泉は正解でした。泉質やお湯の熱さも申し分なく、気持ち良く温まることができました。燃料不足の中、ガソリンがもったいない感じもしますが、温泉には代えられない感じがします。少し遠いけれど、仙台西道路を使えば、直線距離で行くことができるので便利です。こんな状況での僅かな贅沢のようにも感じました。

家に帰って、お手伝いさんとゆったりとした夕食を楽しみました。今日は午後から煮込んだトマト風ミネストロスープ、親子丼、サラダで頂きました。

今日も、倉庫の片付けや、七ヶ浜の状況を見たり、塩釜での朝市に行ったり、たくさんの収穫を得ることができました。塩釜は、思ったより被害が少ない感じがしました。松島湾の島々が防波堤になって、津波が弱められたのかも知れません。壊滅の家はなく浸水程度の被害だったようです。でも港のすぐ近くには、道路の上に舟が乗りあげられていました。やはりかなりの津波が押し寄せたものと思われました。

土曜日なのに、休んではいられないという風に、どこの街も瓦礫の中から、復興に向けて歩みを始めていました。