震災ルポ② 大震災の現実 その2、蒲生集落と荒浜 | アカデミー主宰のブログ

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大震災の現実 その2、蒲生集落と荒浜

その日、スタジオに戻った私は、散乱したCD類や本類を一応片付けて、厨房関係には手を付けず、16時過ぎまで作業に取り組み、家の状態が心配だったので家に向かった。

 家の倒壊は免れたが、家の中は凄いことになっていた。家の中の物が倒れ、玄関の中に入ることが出来なかった。何とかして玄関を開け、倒れている棚を起こしながら、少しずつ片付けていった。全てが散乱状態だったが、何とかして居間までのルートを確保し、今晩寝るだけの場所の確保だけは、しなければならない。本類や棚を起こしながら、少しずつ作業をしていった。台所では棚が崩れ、食器類が散乱し、割れていたので、丁寧に片付けながら、何とか1時間半ほどかけて、寝る場所を確保することが出来た。

ガラス類を片付けたが、電気はないので掃除機が使えず、至る所に散らばっているので、家の中は土足で歩くしかない。ガスも停まっていたが、幸い水道は出た。暗くなってきたので、懐中電灯を付けての作業になった。

夜はカセットコンロを出して、簡単な食事を済ませ、真っ暗な中での生活が始まった。他の状況は全く分からず、ラジオを見つけるまで、詳細を知る由もなかった。

着の身着のままで、早めに寝たが、たびたび余震が来るので、その度に、びくっとして起き上がり、結局ほとんどその日は眠ることができなかった。

 

2日目の朝が来て、朝食を、カセットコンロを使って、簡単にあるものを食べて済ませ、片付けに取り掛かった。

まずスタジオに行って、厨房の倒れた食器棚を起こしてから、ガラス類を片付けた。何とか短時間で片付けることができたので、舟の事が心配になったし、蒲生付近が気がかりなので、出かけて行くことにした。

昨夜のうちに津波の情報が入っていたが、まさかと思いながら蒲生に向かっていた。昨日、通ったように、岡田の集落を通って、河川敷に向かおうとしたが、岡田小学校の所までしか入れなかった。規制がかかって、道路はドロドロ状態、これでは無理と判断し、引き返して仙台港側から入って行くことにした。 

産業道路まで戻り、七北田川の大橋を渡って右折し、仙台港側から入って行った。

どこもかしこも津波が押し寄せたのか、様々なのもが散乱している。凄い状態になっていた。車が流されたのか至る所に転がっていた。

仙台港側から、七北田川を、橋を渡って入ろうとしたが、全て規制がかかっていた。蒲生集落への入り口付近に車を停めて、眺め渡したら、物凄い風景が広がっていた。

全ての物が流され破壊され尽くしていた。津波の恐ろしさをまざまざと知らされた。家が流され橋のたもとで止まっていた。あらゆる残骸が押し寄せ、河川敷に堆積していた。集落側の堤防の下には、破壊され尽くした家が泥水の中に並んでいた。至る所に残骸が、瓦礫となって堆積している。まるで戦場のようなありさま、たくさんの人々がただ茫然とたたずんでいた。

消防の方々や捜索する人が、忙しく動いている。まだ自衛隊は来ていない。

ここから先には車も人も入れない。瓦礫が道路をふさいでいる。昔からの蒲生集落は、全て流されなくなっていると人は言っていた。本当に物凄い風景が累々と広がっていた。

 川の向こう岸あたり、舟の係留地になっていた場所を眺めてみたが、肉眼では舟らしきものは見当たらない。津波にさらわれ、どこかに流されたことは疑いなかった。私の身代わりになって、流されたのかも知れないと思った。

蒲生集落への入り口付近までしか入れなかったが、翌日の午前の惨状の風景を、何とか画像の記録に収めることができた。

 

家に戻って、今度は家の片付けに着手した。2階も全てが倒れ散乱していたので、今日は、書斎を片付けてから、洋服を収納している部屋だけを片付けた。

書斎も全ての物が倒れ散乱していた。本棚が倒れ、本類が散乱していたが、時間をかけて片付けることができた。洋服を収納している部屋も全部倒れていたが、ハンガーに掛った洋服類だったので、案外楽に片付けることができた。大きな姿見も割れて散乱していた。テレビも落ちていたが、幸い破損はしていなかった。洋服類に当たったので壊れなかった。この部屋も何とか終わらせることができた。

 大変な作業なので、少しずつするしかない。目標を持って進めることにしていた。

夜は、仙台駅の近くにある姉夫婦のマンションに行った。エレベーターが使えず、真っ暗な階段を8階まで上った。姉のマンションは、私の家よりも、はるかに凄い状況だったが、二人とも無事だった。姉は、地震当時、外にいて難を免れたし、兄はトイレの中にいて助かった。物凄い揺れでタンス、本棚、テレビ類、全てが横倒しになっていた。少しずつ片づけを始めていた。

姉のマンションは、次の日に電気は復旧したとのこと、水は買い置きのボトルがあったし、カセットコンロで料理をしていた。食料の買い置きもあり、比較的美味しい夕食にありつけることができた。

夕食の後、家に戻り、暗い中で早めに休んだが、風呂に入ることができないので、湯を沸かして体を拭いて休んだ。

3日目の朝が来た。朝は姉のマンションに来て、食事を頂くことにした。その代わり姉の家の手伝いをすることにした。箪笥が倒れて、物凄い惨状になっていた。片付けは男手が必要、夫は病弱であてにならないので、私が手伝った。箪笥を起こして、何とか元通りに設置してやった。旦那の部屋も、大きな本棚が倒れて散乱していたが、その日の夕方、手伝って元通りに直してやることができた。

マンションでの作業を終えてから家に戻り、今度は自分の家の作業に取り掛かった。2階のもう2部屋の作業が残っていた。トレーニングルームの棚も崩れていたので片付け、その部屋も何とか整理することができた。重い器具類は床に置いていたし、ベンチ・スクワットの器具も倒れていなかったのでよかった。

もう一部屋は寝室であるが、いつもは居間で寝ているので使用はしていない。洋服部屋に収納し切れない洋服類を置いていたが、この部屋は洋服ケースが落ちた程度であったので、簡単に済ませることができた。テレビは落ちていなかったのでよかった。

昼食を、カセットコンロで麺類の食事で簡単に済ませ、今日は車の移動では無理なので、バイクを使って取材活動を行うことにした。

若林区の荒浜方面の被害がひどかったようで、バイクで行ったが、七郷を過ぎたあたりから、田んぼが田植えの時期のように水が入っていた。段々水かさが多くなり至るとこに流木や様々なものが流れ着いていた。津波はこの辺りまで来たようである。丁度七郷平野を南北に貫くように東部高速道路が走っている。その辺りまで津波が押し寄せ、高速道路の法面が堤防のようになって止まったようであった。東側は一面海のようになっていた。段々大きな松の大木や車などが、田んぼに流れ着いている。ここまで津波が押し寄せたのであろう。海岸から約2.5キロ当たりの農業園芸センターまで、何とかバイクで来ることができた。道路はドロドロで、大木が横たわり、それ以上は無理、バイクを停めて歩き出した。丁度、そこにいた雑誌社の方と話をしながら、約500m程、東に向かって泥道の中を歩いてみたが、周りは無残な状況であった。海岸からこれだけ離れていても、津波の直撃を受けて破壊されていた。海岸の松並木が根こそぎ運ばれ、大木となって全ての物を破壊し尽くし、道路で止まっていた。なんという有様、のどかな緑豊かな田園が一瞬のうちに破壊され尽くしていた。

2000mほど先に、荒浜小学校の建物が見えた。それ以外の建物はほとんど見えなかった。集落が全て呑みこまれたという、松林がその部分だけ、欠けた櫛のようにカスカスになっていた。これ以上は水が深く行けないので、戻ることにした。たくさんの画像を撮影することができた。

肉親を捜す人もきていた。荒浜の海岸には、津波にのみ込まれたたくさんの遺体が打ち上げられたというが、津波が危険で、まだ遺体収容までには至っていないという。この惨状をみればうなずける気がした。

私たちが親しんだ荒浜の海水浴場や北隣の蒲生のビーチは、完全に全て波に根こそぎのまれて跡形もなくなっていたのかも知れない。

ふるさとの大地のいたたまれない惨状を目の当たりにし、今回の震災の被害の大きさを改めて感じていた。