近代日本百年の絶景、その12、評論:船村徹と高野公男の心の「絶景」・「別れの一本杉」「男の友情」 | アカデミー主宰のブログ

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近代日本百年の絶景、その12、評論:船村徹と高野公男の心の「絶景」・「別れの一本杉」「男の友情」




 作曲家船村徹と作詞家高野公男の「関係」は、単に作曲家と作詞家との関係だけであるばかりでなく、船村をして「俺の高野」「俺だけの公男」と言わしめるように、非常に深い「男の友情」で結ばれた「関係」であったことは、広く知られていることである。

 昭和24年、東京の音楽学校で知り合った二人は、作詞家、作曲家としてコンビを組んで活動を始めていた。

学校で知り合って友情関係を結んだ二人であったが、郷里が船村は栃木、高野は茨城と近いこともあり、ふるさとなまりも似通っていたことから、人間的にも親しい関係に発展していった。

二人の東京に出てからの、バイトしながらの作家暮らしは大変であった。作家として、鳴かず飛ばずの売れない時代であったから、バイトの種類などは選んでなんていられないほど困窮していたのは言うまでもないことであった。

主に高野は、新聞の売り子やキャバレーのボーイ、船村は巷の艶歌師、進駐軍慰問のバンドマスター、キャバレーのボーイなど何でもしながら、日々の生活の糧を得るため苦悩を重ねていた。

そんな中での二人の創作活動は、困難な中でもお互い励ましあって日々を重ねていた。



そんな時、たまたま自分たちの曲を、キングレコードの春日八郎のもとに売り込みに行ったと時に、いくつかの作品の中から目に留められた曲が「別れの一本杉」であった。

昭和30年、これが爆発的なヒットとなり、春日八郎は歌手としての地位を築き、また、船村と高野の創作活動も本格的に展開されることになった。

そんな矢先、高野は、結核に蝕まれ、大ヒットとなったこの「別れの一本杉」が発表された翌年、突如26歳の若さで他界してしまったのである。本当に若すぎる死であった。



私は、結核に感染しやむなく茨城に帰らざるを得なくなった高野を想う船村のこんなエピソードを、昔、船村自身言葉で話していたのを思い出すことができる。

「高野が郷里にいる。俺の池袋のキャバレーでのバイトが終わると、お客さんが飲み残した酒、ウィスキーだの焼酎だのビールだの、ごっちゃまぜにしてバケツに入れ、バイトが終わると始発の列車に乗って、高野のいるとこまで届けてやった。その時の高野の笑顔が忘れられない。」船村は電車賃がなくて、貨物列車に飛び乗って帰ったこともあったという。

二人は生きるために必死であった。さらに高野の病気と二人一緒になって闘っていた。

その頃二人はもはや短なる「友達」ではなかった。船村にとっては「俺の高野」だし、高野にとっては「俺の船村」になっていた。



船村は高野より2歳下、高野はいつも船村をかわいがり、愛しく思っていたことが伺える。また、自分の船村に対する思いのたけを詞に綴り、船村に送っていたように思われる。

「別れの一本杉」の主役は若い男と娘であるが、高野の世界では、若い男が自分で娘が船村であった。東京に出た男に自分を重ね、船村を田舎の娘に投影して生み出した作品ということができないであろうか?



この作品の大ヒットによって高野は作家としての輝かしい出発をしたかに見えた。

まさにこれは、高野が、東京でがんばっている船村に思いを寄せながら、都会に出た男と田舎に残った娘というシチュエーションで生み出した作品ではないかと思われる。

私にはこの詞から、高野の船村に寄せた想いが、ひしひしと伝わってくるような気がする。高野と船村は、この作品によって完全に「結ばれて」いたのかも知れない。



その後、数か月後の高野の絶筆となった「男の友情」(昭和31年)は、船村に向けた遺書のような内容であった。そこには男同士の決して切り離すことのできない、深く結ばれた「愛」を見出すことができるのである。高野にとっても、船村にとっても、この「別れの一本杉」から「男の友情」へ、高野が逝くまでの数カ月の時期、この作品の中には、本当に二人の「壮絶な想い」を見ることができるのである。

だからこそ、船村をして、高野の死後もすっと、今日まで「俺の高野」「俺だけの公男」と言わしめることができたのであろう。

高野の絶筆となったこの「男の友情」を、自分の「命の歌」として船村が作曲し、歌手青木光一の歌で発表することになるが、この作品には、高野と船村の「男同士」の「愛」が見事な形で結実しているように思われる。

高野と船村はこの作品によって、永遠に結ばれることができたのである。高野と船村の心の「絶景」は、まさにこの二つの作品の「世界」なのかも知れない。

   別れの一本杉
1 泣けた 泣けた
  こらえきれずに 泣けたっけ
  あの娘(こ)と別れた 哀しさに
  山のかけすも 鳴いていた
  一本杉の 石の地蔵さんのよ
  村はずれ
2 遠い 遠い
  想い出しても 遠い空
  必ず東京へ ついたなら
  便りおくれと 云った娘(ひと)
  りんごのような 赤いほっぺたのよ
  あの泪(なみだ)
3 呼んで 呼んで
  そっと月夜にゃ 呼んでみた
  嫁にもゆかずに この俺の
  帰りひたすら 待っている
  あの娘(こ)はいくつ とうに二十(はたち)はよ
  過ぎたろに



男の友情

1 昨夜(ゆうべ)も君の夢見たよ

  何の変りもないだろうね

  東京恋しや行けぬ身は

  背伸びして見る遠い空

  段々畑のぐみの実も

  あの日のままにうるんだぜ

2 流れる雲はちぎれても

  いつも変らぬ友情に

  東京恋しや逢いたくて

  風に切れ切れ友の名を

  淋しく呼んだら泣けて来た

  黄昏赤い丘の径

3 田舎の駅で君の手を

ぐっとにぎったあの温み

  東京恋しや今だって

  男同志の誓いなら

  忘れるものかよこの胸に

  抱きしめながらいる俺さ



・パソコンのYou tubeで船村自身が歌っている二つの作品を聴いてみてください。

本当に壮絶なまでの二人の生きざまが感じられ、泣けてしまします。

船村がいかに高野を愛し、彼の死を悔やんでいたかが伺われます。

船村の「演歌巡礼」の旅は、もしかしたら高野への「供養の旅」なのかも知れないと思うのです。







・2015年4月には、栃木県日光市に、新たに「船村徹記念館」が開館する予定です。是非訪ねて、新たな随筆に挑戦したいと思います。