『アジアの片隅で~マークⅡ』 吉田拓郎 1982年LIVEより
某民間FM放送局の開局記念(もう30年以上も前の事ですが)に吉田拓郎さんのLIVEの模様を中継放送していました

放送時間ぎりぎりまでこの『アジアの片隅で』が流れ続けていました

「一晩経てば政治家の首は挿げ代わり~」
「一晩経てば秘密の恋は暴かれて~」

今では 「文春砲」と言う強力ま兵器や ひと昔前の「フライデー・フォーカス戦争」のF・F報道でこんな事も有ったでしょうか

某国の総理大臣(掃除大臣か?)が自身の支持率UPを願って米国大統領と会談したり 米国の議会で演説していましたが 現在の日本国内の諸問題が綺麗に片付いてしまったかの様な歯の浮いた言葉しか聞こえて来ませんでした

まあ百歩譲って一国の総理大臣ですから 日米同盟の堅持やアジア・環太平洋の安全保障の話をするのは当然の事ですが.....

例の少子化問題に対応した「支援金」の話
最初 「支援金」と言っていたので数年前に新型コロナウイルス問題は発生し全国民に支給した「支援金」と同様?と想ったら 全国民から子育て支援政策に必要な資金を「支援して頂く支援金」つまり全国民が現在子育て中の方々や将来の少子化問題に対応する資金確保のために 全国民から国家を支援する?資金として集める話な訳で.....

国家税収と年度予算の非常にアンバランスな数字を「国債発行」で数字合わせしている中で 安全保障(防衛費)の吐出した増額

そして昨年から大きな問題がアカラサマになり J民党からの離党だとか期間限定の党員資格停止や役職停止とか J民党の中だけの事で予算委員会の質疑を混乱させたりと「国民不在」の政治がまかり通っている様に感じます(あくまでも個人的な感想です)

「適材適所」と胸を張って二世議員や族(俗?)議員を任命した各大臣等の首が度々挿げ替わる内閣

もう喉元過ぎれば熱さを忘れている某宗教団体との癒着問題

👆の二つに関係している J民党の役員は全くのお咎め無し!

問題なのは謝罪されても(謝罪さえしていない議員も)何故 その様な問題がいつ発生してそれをどの様な方法で続けてきたのか? その発案者は?と言った根本的な部分が明らかになって来なければ 👆の諸問題は解決されないのでは?

自分で「火の玉になって」と言っていた某国総理大臣はその解決方法を「選挙民である国民の皆様に委ねる(選挙の結果で)」的な発言......

J民党支持とか非J民党支持とか言う話では無く 国民が理解・納得できる説明と解決方法(法案)を一刻も早く出す事が国民の政治へ信頼を取り戻す事なのでは?

『RISING SUN(風の勲章)』 浜田省吾
1945年 第二次世界大戦(大東亜戦争)後 焼け野原から復興して来た日本が抱えて来た諸問題への浜省が出したアンチテーゼ的メッセージソングか?!
「飢えを枕に 敗北を発条(バネ)に 風向きを道標に 駆け抜けて来た」
「過ぎ去った昔のことと 子どもたちに何一つ伝えずに この国 何を学んで来たのだろう?」
「老いて行く 孤独の陰に脅え 明日に目を伏せて踊るだけ Beatに委ね バリーライトの海で」(*「バリーライト」 ステージ上の演者等を照らすライト 「バリライト」ですが 唄の流れ上 「バリー」と長く発声しています)

戦後 広島県出身の浜田省吾さんが問い続けて来ている言葉だと想います(あくまでも個人的感想です)
「何を支えに 何を誇りに 走り続けて行こう」
混迷している現代の我々への問いかけ

この曲は何度聴いても 戦中・戦後を報道して来た映像(映像の世紀(バタフライエフェクトも)が脳裏を駆け巡り涙してしまいます


『いつも見ていたヒロシマ』 吉田拓郎
「子どもらに 俺たちが与える物は有るか? 安らかに笑う家はいつまで有るか?」
「いつも いつも遠くから遠くから見ていたヒロシマ!」と拓郎さんは訴えています

鹿児島県出身で広島育ちの拓郎さんや広島県出身の浜田省吾さん
東京生まれで実家が広島の某国総理大臣K田さんに👆の数々のメッセージ届いているのだろうか?

昭和33年8月15日
戦後13年後の終戦の日に生まれた私への永遠のテーマ曲なのかもしれません