『マシュ・ケ・ナダ』 セルジオ・メンデス&ブラジル’66
NHK-BSの新日本風土記を観ていたらBGMに『マシュ・ケ・ナダ』が流れていました

私が小学校6年生の時 父親からAIWA(アイワ)のFM/AM/SW(短波ラジオ)付きのカセットテーレコーダー(モノラル)を頂きました
(これも父親の同様機種を壊されないための措置!)

頂いてから3日後には「開腹手術」(分解して内部を診る)

このカセットテープレコーダーは大活躍し高校に入学する頃まで 外形は保っていましたが 内部(特にラジオ部)は大改造されて当時一部のマニアで流行していたBCL/SWL(AMラジオ局や短波ラジオ局に受信報告書を送り 当該ラジオ局から返信のベリカード(絵葉書や写真のカード)が届いたり 時には記念品やノベルティーグッズまで頂戴する事も有りました

特に 短波放送では外国のラジオ放送(当時は日本語放送も沢山聴けました)を受信して報告書を送ると上記のカードの他に 現地のお土産品みたいな木彫りの置物やペナント・キーホルダーなんて届いた事もありました

話を『マシュ・ケ・ナダ』に戻して このAIWAの「ラジカセ」にデモンストレーションテープが付属していて その1曲目が『マシュ・ケ・ナダ』でした

軽快なラテン・サンバの曲をしっかりと聴いたのはこれが最初かなと想います(ラジオ・TVからは流れて来てはいましたが 目的を持って聴いた事が)

父親のレコード庫から何枚かのラテンミュージックのLP盤を持ち出して自分のコンポーネントステレオで聴いては悦に入っていました


『Bitter Sweet Samba』 Herb Alpert & The Tijuana Brass
ラジオ放送局もなるべく遠くの放送局を探して聴く事に興味を覚え AM放送局の電波が良く聴こえる夕方~深夜帯にダイヤルを廻していました

御当地 宮城県唯一のAM民放放送局である「東北放送」( AM波1260KHZ/FM波93.5MHZ)の周波数が1260KHZ その直ぐ近い周波数にニッポン放送1240KHZ(当時 現在は1242KHZ)の大電力出力の放送局が有り 簡単に関東圏の放送を聴いていました

そこに聴こえて来たのが👆をオープニング・エンディング曲に使っていたANN(朝日ニュースネットワークでは無く オールナイトニッポン)

その後 東北放送ラジオでもオールナイトニッポンを「ネット放送」し始めたので「受験勉強の友」としては東北放送」で聴いていました
(但し 月曜日の「伝説の糸井五郎さん」の放送はネット放送していなかったので 糸井さんの番組はニッポン放送にダイヤルを合わせていました

今では「ダイヤルを合わせる」なんて言葉も久しい時代でしょうか?
インターネットで各地のラジオ番組が聴けるし 聞き逃し配信サービスまで有る時代ですからね

「携帯ラジオ」で聴くのでは無く PCやスマートフォンで「ラジオを聴く」なんて隔世の感じであります(あくまでも個人的な感想です)

1973年 アマチュア無線局開局の頃 モノクロ写真!
病高じて 中学校3年生の春に この頃から「電気小僧」が通過する「アマチュア無線」の国家試験に合格して無線局を開設して 昨年の9月に開局50周年を迎えるまでになりました

1975年頃(高校2年生) カラー写真になった!
遠くの無線局(外国の無線局)と交信する・受信する こんな事を続け現在も月刊の無線雑誌のレポーターを10年以上続けて 毎年 「年間(12ヶ月)レポート皆勤賞」の記念グラスを頂戴している訳です(東日本大震災の年2011年は約50名の中から4~5名に与えられる特別賞も≒地震の被災地にも係わらずレポートを送り続けた=努力賞でしょうね)

1983年 社会人1年生頃 
今では 電気に興味のある方々はパソコンの制作やプログラミング等々を選ばれるのではないでしょうか?

1989年 国連加盟国数やオリンピック参加国数を上回る国々と交信していた頃
一部では「ドローン」を使って上空から撮影した画像を電波で送出するためにアマチュア無線の免許を取得されるとも聞くに及んでいます

『夏まつり』 井上陽水
井上陽水さんの歌に「10年は一昔」のフレーズが有りますが 50年も経っている訳ですから!