昔から国語の授業やテストが苦手だ。
苦手というより、ちょっと抵抗がある。
誰かの考えた事を、その通りに思うこと。それがテストの答えだったりする。
たとえば、評論家、文芸作家と呼ばれる人々。文学者もそうだ。
その作者の、いままでの作品群。時代背景。好きな女が居たとか言う話で、
解釈というものがかわってくるのだそうだ。
言葉と言葉の隙間に、するりと、その作者の思いなどが、見え隠れするのだそうだ。
それを踏まえた正解は、実に理論どおりに展開し、わき道にいかない。
百点というやつだ。
ではそのとおりに、考えることは、はたして必要なのかどうか。
どうしても、疑問。
それぞれの想いがあってはいけないのだろうか?
だから、苦手なのだ。
評論家とは、どんな連中なのか、写真をみたことがある。
はげたおやじだった。波平みたいな。
なんでそいつの思った通りに、かんがえなければならないのか。
しかも、波平に。
強く思うのだ。
学校から解放されて、いまは、答えが自由だ。あの波平は、テレビにしかいない。
答えを自分でみつけなければならないのも事実。
いまだに、人生、生き続けることは、答えが見つからない。
でも、だから、面白いのだ。と思う。
わからないから、答えを探す。そのために、生きているのではないか。
さらに。こう決めつけた考えさえ、間違っている可能性も高い。
そう、いまだにわからない。
だから、ひとを知りたくなる。人を知ることは自分を知ることだからだ。
いろんなことに手を出してみる。執着するぐらいでもいいし、遊びでもいい。
誰かのためになってみるのも、選択枝のひとつ。誰かを嫌いになるのも、ひとつだ。
ただ言えることは、外から見ているだけでは、だめだということ。
それで、わかったように思うのは、もったいないということ。
さて、このブログ、結局、なにをいいたかったんだろう。わからないのだ。