2月7日から観始めた「ニトラム」を
やっと、
やっと、
やっと、
観終わった。
しんどかった〜
最後まで頑張れたのは
主演のケイレブ・ランドリー・ジョーンズが素晴らしかった!
からです。ニトラム(NITRAM)というのは
主人公のマーティンという名の逆さ読みで、
子供の頃、同級生につけられた蔑称。
この映画は
1996年、オーストラリアのタスマニア島で
死者35名、重軽傷者15名を出した
ポート・アーサー事件という
銃乱射事件をモデルにしている。
裁判にあたり、犯人は
知的障害、発達障害、精神疾患等の
診断が下りていたが
犯行に計画性があることから
責任能力ありとされ、
計35回の終身刑(死刑制度がない)の
判決が下された。
判決が下された。
家族(両親とニトラム)の食事のシーンで、
母親が
「服が汚れているから洗濯機に入れて来て」
と言う。
父親は
「そんな事、気にしなくていいから」
と庇うが、
母親が言い募るので
結局ニトラムはその通りにする。
つまり
服は洗濯機へ、
彼はパンイチで食卓につく。
これ、
反抗しているわけでなく、
意図が通じていない発達障害あるあるで、
この時もう20歳は超えてるだろうに、
(20年以上家族なのに)
コミュニュケーションが危うい状況を
うまく描いている。
また、ちょっと話が進んで、
ニトラムを可愛がってくれている老婦人ヘレンと
自動車の試乗をしている時、
ニトラムは面白がって、
助手席からハンドルにちょっかいをかけて
事故を起こしかける。
同乗していたディーラーがブチ切れて、
ヘレンの目の届かないところで
ニトラムの頭を
ハンドルに打ち付けるんだけど、
何で怒られてるのか
理解できていないから、
それは彼にとって
謂れのない暴力でしかない。
こうやって
「普通の人たち」側から
(彼にとっては)
理由のわからない軽蔑や暴力を受け続けて、
怒りをためながら
孤立していく様を観ているのは、
とんでもなく辛かった。
そしてやっぱり、
このハンドル遊びで
唯一穏やかに
一緒に過ごせたヘレンは
死んでしまう。
私の甥は
軽度の知的障害を伴う自閉症なのだが、
まだ私より背が低かった頃、
(小学校4年生くらい)
ふと目の前を通り過ぎた時、
艶々の黒髪の中に
100円玉くらいのハゲがあるのを見つけた。
確か
家族が集まっていた
クリスマスの夜で、
姉もまだ気づいていないことだった。
苛められてでもいるのかと、
それから姉は学校に面談に行ったり、
先生も調査をしてくださったり、と
結構キリキリした年末になった。
結局、
クラスの子たちからは
(特に女の子たちに)庇われている、
虐めはないという結論で
姉も納得していた。
ただ、高学年となって
普通クラスに通うのは限界なんじゃないか、と
翌年度からは特別学級に変更した。
専門家を頼るべきだと。
孤独なんて
大なり小なり
誰しもが抱えているのだとしても、
同じ目線で話せる人がいないというのは
とてつもなく孤独なんだろうな
と、
あの時からずっと思っている。
言語化できない孤独、
自分には理解できないという哀しみが
怒りに変換されることは多々ある。
何より
自分の生存が脅かされていると認識した時、
怒りは爆発する。
こんな状況では生きていけない、
と思ったとき。
「犯人の動機は不明」
どんな場合でも
人間の心理なんて正確には解らない。
家族の問題、療育の問題、社会のあり方の問題。
アメリカだってオーストラリアだって
これだけ銃器が蔓延っているのは、
ニトラムが
花火に固執してたように
もともとヒト全般に
そういうものを好む性質があるんだよ。
「ニトラム」と揶揄してはじき出して
スケープゴートを作る性質も。
ただ、
人間をはじめ生き物全般には
「何か美しいもの」も
確かにある。
(誰でも私自身にも)
ケイレブ・ランドリー・ジョーンズは
それを見事に表現していた。
映画は実話をモデルにしているが、
虚構である。
それでも
フィルムの中のニトラムの
圧倒的な
存在感は何なんだろう。
辛くてもしんどくても
リタイアできなかった。
