閃き備忘録:何か的=地球生命としてフェア(的)
 なにか現代人になくて、他の生物と同じような暮らしをしていた時代の人間にあるものがあった。そこには本質的な意味があるようにおもう。
 以前まではそれを生物的である(生物として本質的な生き方をしている様)と呼んでいた。しかし、生物的という言葉だと、現代人の、より効率的に生きる(社会や産業等の創成、育成)だとかにも見いだせてしまう。そのため、これは違う言葉で表す必要性があった。そこで、仮定的に「何か的」(何か的であるか否か)ということばを使うことにした。
 その後、人間の生命活動の延長という矛盾に気が付いて、このような言葉として捉えるに至った。
(「地球生命として」をつけたのは、これは地球外に人間が居住できた場合には成り立たないかもしれないから。)
ex.
 昔の人間は地球生命としてフェアだった。他の生き物と同じように、産まれて産んで死んで次に交代という自然なサイクルを営んでいた。でも、進化するにつれて、そのサイクル(人生)を伸ばしすぎた。そのような人生を伸ばす行為はフェアじゃない。
 生きることと人生を伸ばすことは少し違う気がする。そのせいで他の生き物は圧迫されて絶滅し、自分たち人間(つまり将来の子孫)も圧迫してしまう。ここが重要な点で、生物としての矛盾である。増え続ける人間。そのそれぞれが長く生きることを望み、世代交代が少なくなり、先延ばしにもなるということだ。このまま行けば人間は滅びる。
 命を繋ぐのが生命だと思う。それに反する現代人は地球生命としてフェアではない。