草木は身を動物虫けらに捧げるのが嬉しいのであるぞ。種は残して育ててやらねばならんのざぞ、草木の身が動物虫けらの御身(みみ)となるのざぞ、出世す るのざから嬉しいのざぞ、草木から動物虫けら生れると申してあろがな、人の身(み)神に捧げるのざぞ、神の御身(みみ)となること嬉しいであろがな、惟神 のミミとはその事ぞ、神示よく読めば判るのざぞ、此の道は先に行く程 広く豊かに光り輝き嬉し嬉しの誠の惟神の道で御座るぞ、神示よく読めよ、何んな事でも人に教へてやれる様に知らしてあるのざぞ、いろはに戻すぞ、一二三 (ひふみ)に返すぞ、一二三(ひふみ)が元ぞ、天からミロク様みづの御守護遊ばすなり、日の大神様は火の御守護なさるなり、此の事 魂までよくしみておらぬと御恩判らんのざぞ。悪も善に立ち返りて御用するのざぞ。善も悪もないのざぞと申してあろがな、
“人の身(み)神に捧げるのざぞ、神の御身(みみ)となること嬉しいであろがな、”
これはよくわかります。
礼拝をすれば、自然とそう思えるようになると思います。
そもそも肉体が、かり(仮、借り)物であるなら、
人の身を神に捧げるのは自然な事なんだと思います。
話を戻して、ここは読むのが難しい。
“我”を「が」と読むか、「われ」と読むか、
ここを読み違えると、意味が変わってくる。
ちなみに“か”の意味は
精神的に高いところにある人、らしいです。
濁点で“か”が強まっているので、精神的により高いところにある人、になるのでしょうか?
何事も我(が)がしてゐるなら自由になるのであるぞ。我(が)の自由にならんのはさせられてゐるからざぞ、此の 位の事判らんで神の臣民と申されんぞ、国々所々に宮柱太敷キ立てよ、たかしれよ。此の先は神示に出した事もちいんと、我(われ)の考へでは何事も一切成就せんのざ ぞ、まだ我(われ)出して居る臣民ばかりであるぞ。従ふ所には従はなならんぞ、従へばその日から楽になって来るのざぞ、高い所から水流れる様にと申して知らしてあ ろがな。十月の十五日、ひつ九のかみ。
“従ふ所には従はなならんぞ、従へばその日から楽になって来るのざぞ、高い所から水流れる様にと申して知らしてあろがな。”
私が以前から、言ってた事です。
抗えないことに抗うのを止めたら苦しみがなくなります。
>>第四帖 (三三八)
世界の臣民 皆手引き合って行く時来た位 申さいでも判ってゐるであろが、それでもまだまだ一苦労二苦労あるぞ、頭で判っても肚で判らねば、発根(ほっこん)の改心出来ねば、まだまだ辛い目に会ふ のざぞ、人民 自分で首くくる様なことになるのざぞ、判りたであろ。天の御三体の大神様と ちのおつちの先祖様でないと今度の根本のお建替出来んのざぞ、判りても中々判らんであろがな。洗濯足らんのであるぞ。今度はめんめにめんめの心改めて下さ れよ、神は改めてあるが、神から改めさすのでは人民可哀想なから めんめめんめで改めて下されよ、改まっただけ おかげあるのざぞ。今度の岩戸開いたら末代の事ざぞ、天地の違ひに何事も違ふのざぞ。信者引張りに行って呉れるなよ、神が引き寄せるから、役員の所へも引 き寄せるから、訪ねて来た人民に親切尽くして喜ばしてやれと申してあろが、人民喜べば神嬉しきぞと申してあろが、草木喜ばしてやれよ、神示よく読めばどう したら草木動物喜ぶかと云ふことも知らしてあるのざぞ、今迄の心 大河に流してしまへば何もかもよく判って嬉し嬉しとなるのざぞ、まだまだ世界は日に日にせわしくなりて云ふに云はれん事になって来るのざから、表面(うわ つら)許り見てゐると判らんから、心大きく世界の民として世界に目とどけてくれよ、元のキの神の子と、渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子と三つ揃って しまはねばならんのぞ、アとヤとワと申してあるが段々に判りて来るのざぞ。実地のことは実地の誠の生神でないと出来はせんぞ、臣民はお手伝ひぞ、雨風さへ どうにもならんであろうが、生物 何んで息してゐるか、それさへ判らいで居て何でも判ってゐると思ってゐるが鼻高ぞと申すのざ、今の内に改心すれば名は現はさずに許してよき方に廻してやる ぞ、早う心改めよ。十月十六日、ひつ九のか三。
“元のキの神の子”=木俣神のこと?
“生物 何んで息してゐるか、それさへ判らいで居て何でも判ってゐると思ってゐるが鼻高ぞと申すのざ、”
ここで言われているのは、“この世”の理屈の話じゃないと思います。
スウェーデンボルグ氏の著作を読んでみて下さい。
書いてあります。
神示には阿保とか赤子とかの言葉が出てきます。
これは無垢な心という事なんでしょう。そんな気がします。
神示には神示を読めと言う記述があります。
これは自分の守護神にも聞かせろという意味合いがあると思います。
私はある時から本来見えないはずのものが見えるようになりました(まだ、不安定ですが)。
その時の自分の状態で良いもの、悪いものを引き寄せます。
神示を読むということは自分が考えるより大事な事だと思います。
>>第十帖 (三四四)
天の岩戸開いて地の岩戸開きにかかりてゐるのざぞ、我一(いち)力では何事も成就せんぞ、手引き合ってやりて下されと申してあること忘れるでないぞ。霊 肉共に岩戸開くのであるから、実地の大峠の愈々となったらもう堪忍して呉れと何んな臣民も申すぞ、人民には実地に目に物見せねば得心せぬし、実地に見せて からでは助かる臣民少ないし神も閉口ぞ。ひどい所程 身魂に借銭あるのぢゃぞ、身魂(みたま)の悪き事してゐる国程 厳しき戒(いまし)め致すのであるぞ。五と五と申してあるが五と五では力出ぬし、四と六、六と四、三と七、七と三ではカス出るしカス出さねば力出んし、そ れで神は掃除許りしてゐるのざぞ、神の臣民それで神洲清潔する民であるぞ、キが元と申してあるが、キが餓死(うえじに)すると肉体餓死するぞ、キ息吹けば 肉息吹くぞ、神の子は神のキ頂いてゐるのざから食ふ物無くなっても死にはせんぞ、キ大きく持てよと申してあるが、キは幾らでも大きく結構に自由になる結構 な神のキざぞ。臣民 利巧(りこう)なくなれば神のキ入るぞ、神の息通ふぞ、凝りかたまると凝りになって動き取れんから苦しいのざぞ、馬鹿正直ならんと申してあろがな、三千年 余りで身魂の改め致して因縁だけの事は否でも応でも致さすのであるから、今度の御用は此の神示読まいでは三千世界のことであるから、何処(ドコ)探しても 人民の力では見当取れんと申してあろがな、何処探しても判りはせんのざぞ、人民の頭で幾ら考へても智しぼっても学ありても判らんのぢゃ。ちょこら判る様な 仕組なら こんなに苦労致さんぞ、神々様さえ判らん仕組と知らしてあろが、何より改心第一ぞと気付けてあろが、神示肚にはいれば未来(さき)見え透くのざぞ。此の地 (つち)も月と同じであるから、人民の心 其の儘に写るのであるから、人民の心悪くなれば悪くなるのざぞ、善くなれば善くなるのぞ。理屈 悪と申してあろが、悪の終りは共食ぢゃ、共食ひして共倒れ、理屈が理屈と悪が悪と共倒れになるのが神の仕組ぢゃ、と判ってゐながら何うにもならん事に今に 世界がなって来るのざ、逆に逆にと出て来るのぢゃ、何故そうなって来るか判らんのか、神示読めよ。オロシヤの悪神の仕組 人民には一人も判ってゐないのざぞ。神にはよう判っての今度の仕組であるから仕上げ見て下されよ、此の方に任せておきなされ、一切心配なく此の方の申す様 にしておりて見なされ、大舟に乗って居なされ、光の岸に見事つけて喜ばしてやるぞ、何処に居ても助けてやるぞ。雨の神、風の神、地震の神、荒の神、岩の神 様に祈りなされよ、世の元からの生き通しの生神様 拝(おろ)がみなされよ。日月の民を練りに練り大和魂の種にするのであるぞ、日月の民とは日本人許りでないぞ、大和魂とは神の魂ぞ、大和の魂ぞ、まつりの 魂ぞ、取違ひせん様に気付けおくぞ。でかけのみなとは九九(ココ)ぢゃぞ、皆に知らしてやりて下されよ、幾ら道進んでゐても後戻りぢゃ、此の神示が出発点 ぞ、出直して神示から出て下されよ、我張りてやる気ならやりて見よれ、九分九分九厘で鼻ポキンぞ、泣き泣き恥ずかしい思いしてお出直しで御座るから気付け てゐるのぢゃ、足あげて顔の色変へる時近付いたぞ。世建替へて広き光の世と致すのぢゃ、光の世とは光なき世であるぞ、此の方の元へ引寄せて目の前に楽な道 と辛い道と作ってあるのぢゃ、気付けてゐて下されよ、何(ど)ちら行くつもりぢゃ。十一月二十七日、一二
ここは説明不要ですよね。
ただ、かなり重要な箇所だと思います。
>>第十一帖 (三四五)
日の出の神様お出ましぞ、日の出はイであるぞ、イの出であるぞ、キの出であるぞ、判りたか。めんめめんめに心改めよと申してあろがな、人民と云ふ者は人 に云はれては腹の立つ事あるものぢゃ、腹立つと邪気起るから めんめめんめに改めよと、くどう申すのぢゃぞ、智や学ではどうにもならんと云ふ事よく判りておりながら、未だ智や学でやる積り、神の国の事する積りでゐる のか。判らんと申して余りでないか、何事も判った臣民 口に出さずに肚に鎮めておけよ、言ふてよい時は肚の中から人民びっくりする声で申すのざ、神が申さすから心配ないぞ、それまでは気(ケ)も出すなよ。二十 二日の夜に実地が見せてあろうがな、一所だけ清いけがれん所残しておかな足場なく、こうなってはならんぞ、カタ出さねばならんぞ、神国、神の子は元の神の 生神が守ってゐるから、愈々となりたら一寸の火水で うでくり返してやる仕組ざぞ、末代の止(とど)めの建替であるから、よう腰抜かさん様 見て御座れ、長くかかりては一もとらず二もとらさず、国は潰れ、道は滅びてしもうから早う早うと気もない時から気つけてゐるのぢゃが、神の申すこと聞く臣 民人民まだまだぞ。此の道 難しい道でないから その儘に説いて聞かしてやれよ、難し説くと判らん様になるのぞ。平とう説いてやれよ、難しいのは理屈入るのざぞ、難しい事も臣民にはあるなれど理屈となる なよ、理屈悪ざぞ。霊術も言霊(ことだま)もよいなれど程々に、三分位でよいぞ、中行かな行かれんのざぞ、銭儲けて口さへすごして行けばよい様に今の臣民 まだ思ってゐるが、それは四つ足の四つの悪の守護である位 判りておろがな。悪とは他を退ける事であるぞ、まつりまつりとくどう申してあること未だ判らんのか、今 外国よいと申してゐる臣民は外国へ行っても嫌はれるぞ、外国にも住むところ無くなるぞ、外国も日本もないのざぞ、外国とは我よしの国の事ぞ、神国は大丈夫 ざが、外国や日本の国 大丈夫とは申されんぞ、と事分けて申してあろがな、日月の集団作り、境界作ってもならんが
雨の巻は重要な言葉が多いですね。
このブログでの引用は全て日月神示データー からです。
この文章が一番読みやすいと思っているのは私だけでしょうか?
中矢伸一氏が出している「完訳 日月神示」は中矢氏の解釈本です。
完訳という言葉は不適切だと思います。
あの本は神示でするなと書かれてある事をやってます。
私は購入してしまいましたが、買わない方がいいと思います。
>>
第十二帖 (三四六)
上面(うわっつら)洗へばよくなるなれど、肚の掃除なかなか出来んぞ、道広める者から早う掃除まだまだであるぞ、今度 神から見放されたら末代浮ぶ瀬ないぞ。食ひ物大切に家の中キチンとしておくのがカイの御用ざぞ、初めの行ざぞ。出て来ねば判らん様では、それは神力無いの ぞ、軽き輩(やから)ぢゃぞ、それで神示読めとくどう申してゐるのざぞ、神の申す事 誠ざと思ひながら出来んのは守護神が未だ悪神の息から放れてゐぬ証拠ざぞ、息とは初のキであるぞ、気であるぞ。悪神は如何様にでも変化(へんげ)るから、 悪に玩具にされてゐる臣民人民 可哀想なから、此の神示読んで言霊高く読み上げて悪のキ絶ちて下されよ、今の内に神示じっくりと読んで肚に入れて高天原となっておりて下されよ。未だ未だ 忙しくなって神示読む間もない様になって来るのざから くどう申してゐるのざぞ、悪魔に邪魔されて神示読む気力も無くなる臣民 沢山出て来るから気付けておくのざ。まだまだ人民には見当取れん妙な事が次から次にと湧いて来るから、妙な事 此の方がさしてゐるのざから、神の臣民 心配ないなれど、さうなった神の臣民 未だ未だであろがな、掃除される臣民には掃除する神の心判らんから妙に見えるのも道理ぢゃ。天の様子も変りて来るぞ。何事にもキリと云ふ事あるぞ、臣民 可哀想と申してもキリあるぞ、キリキリ気付けて下され、人に云ふてもらっての改心では役に立たんぞ、我と心から改心致されよ、我でやらうと思ってもやれな いのざぞ、それでも我でやって鼻ポキンポキンか、さうならねば人民得心出来んから やりたい者はやって見るのもよいぞ、やって見て得心改心致されよ、今度は鬼でも蛇(ぢゃ)でも改心さすのであるぞ。これまでは夜の守護であったが、愈々日 の出の守護と相成ったから物事誤魔化しきかんのぞ、まことの人よ、よく神示見て下され、裏の裏まで見て下され、神国の誠の因縁判らいで、三千年や五千年の 近目ではスコタンぞ、と申してあろがな、天四天下平げて、誠の神国に、世界神国に致すのざぞ、世界は神の国、神の国 真中の国は十万や二十万年の昔からでないぞ、世の元からの誠一つの神の事判らな益人とは申されんぞ、神の申すこと一言半句も間違ひないのざぞ。人民は其の 心通りに写るから、小さく取るから物事判らんのさぞ、間違ひだらけとなるのざ、人民が楽に行ける道作りて教へてやってゐるのに、我出すから苦しんでゐるの ざ、神が苦しめてゐるのでないぞ、人民 自分で苦しんでゐるのざと申してあろがな。十二月七日、七つ九のか三神示。
“カイの御用”、カイは音節文字だと思います。
文字の変換で調べてみて下さい。
戒、改、開、潰、壊、いっぱい意味があります。
私は改、で解釈してました。
“息とは初のキであるぞ、”
これは深い。
息=イキ=一キ