みなさま。
先日2月4日、無事アート食堂三号線を開店することができました!

オープニングイベントには沢山の方々が来店され、大盛況のうちに終えることができました。

当日御来店された方、お手伝いしていただいた方、ありがとうございました。

これからも様々な企画を準備しています。

アートと社会と人を繋ぐ「場」にしていきたいと願っています。
どうかよろしくお願いします。




次回は「献立作り」として企画会議を行います。
食堂でこんなことしてみたい、企画を持ち込みたい、こんな作品を展示して欲しい
など意見をお持ちの方はぜひ参加してください。


日時 2月12日(土)
場所 プールスコート通り マリメッコ二階 アート食堂三号線
時間 18:00~

アート食堂 3号線 企画準備室!
アート食堂 3号線 企画準備室!
遅くなりましたが、声明文考えてみました。



いつの間にか「疲弊」と「惰性」が時代を表す雰囲気になってはいないか?
いつの間にか想像する「ちから」が失われていやしないか?
いつの間にかインターネットを眺めることが「対話」とすり替わってはいないか?
いつの間にか自分の言葉に命を吹き込むことを恐れるようになってはいないか?
いつの間にかあなたのからだは肩こりしか感じなくなってはいないか?

「今」アートで出来ることを。
こんにちは。

KZさんの記事読ませていただきました。

コメント欄に書いてたのですが、長くなってしまい結局記事にします。

サミットで質問された女性は、おそらく誰かに
傷つけられた直後だったんでしょうかね。

その復讐というか、鬱憤をその場でぶちまけてしまったっという感じがします。
ただその発言をする前に、冷静に自分が発する言葉や文章の内容を自分で検閲して
発言を控えたり、内容を変えたりする(ごく当たり前のことですが)が出来なかったのだと思います。
このごく当たり前の発想が出来ないことを→(想像力が無い)と言うのではないのか?
と思いました。

想像+ちから=想像力なんです。
想像するのは誰にでも、どんな時にもできます。ただ現在日本の社会にはその想像された内容を外部に発する(押し出す)際に必要な「ちから」が足りなくなっているように思います。
その「ちから」とは、想像した内容を他人に分かち合えるようにかみ砕いたり、
言葉に置き換えたり、表現物に翻訳したりする力強さ、だと思います。

本来その「ちから」は、個々人の内部から自然に湧きあがってくるもののはずでしたが
説明過多な表現物に囲まれて(沢山売れよう、買われようという欲求によって事実以上に脚色された表現)に慣れてしまうと、本来の「ちから」は発動せず、他人の媒体表現に乗っかってしまって
楽をしてしまうのでないのか?と思います。

楽をすることに疑問を感じなくなってしまっているのでは?という不安は自分自身にも
常にあります。

広大なネット上に浮かぶ、様々な天文学的な数の文字や図像の羅列。

当たり前ですがこれはすべて人間の中から出てきたものなんだということを、時に忘れてしまいます。
「想像には責任が付いて回る」言い回しは違いますが、たしか村上春樹さんの言葉だったと思います。
~「夜寝ているときに観た夢の内容は、そのまま現実の起きている生活と地続きであって
深い部分では、その夢を成立させている場所や世界は他人と共有している。」

ネット空間を徘徊していると、まるで自分が夢を観ているときのような感覚を覚えるときがあります。


「善悪」という単純な二元論の倫理観では、運用出来なくなっているネット社会が、現実の社会を凌駕し覆い始めてる今こそ、想像することと、それを押し出す「ちから」について考えてみたいと
思いました。


食堂ソムリエ担当