コロナ禍でも、コロナウィルスと並ぶほどに、
強い力で日本を震撼とさせているエネルギーがあります
それは、日本にある
「世間の目」というエネルギーです
日本では、この世間の目が、まるで神様のような絶対的な存在になっている事に気づいている方は少ないのではないでしょうか
ホメオパシーは、まだまだ日本で歴史が浅いため、
海外の先生やケースから学ぶことが多いですが
その上で、日本でホメオパシーのコンサルテーションをさせていただくと、圧倒的な違いがあります
日本人には「恥の文化」が、とても深く染み込まれて在いる!
という事です
「自分がどう在りたいか」より、その前に
他人の目、世間の目、どう思われるか
迷惑をかけないか、悪く言われないか、
この事は空気の如く、当たり前の「大前提」となっているからです
重力がある事を意識する事は少ないでしょうが
重力は絶えず絶対に存在している事と同じくらい、大きな前提とでも言いましょうか。
それほど当たり前の大前提となっている、
この辺は、世界各国のコロナに対する反応の違いを見ていると、少し見えて来た方もいるかもしれません
世間の目を大切にするのことが、必要な事もあるでしょう
でも…
そればかりだと、いつか苦しくなりますよね
だって、自分の生命だから。
よく、死をを目の前にすると、残るものは何だろう?という事を意識すると、人生に於いて大切な事がクリアになってくると言います
私は、内田也哉子さんが、亡き父に送った言葉を読んで、とても心に響きました
↓
「安らかに眠るな!」
Fuckin' Yuya Uchida,
don't rest in peace
just Rock'nRoll!!
恥の文化の日本の中でこの言葉を言えるまで、これまで
色んなご苦労や軋轢があったのではなかろうかと、手紙(最後に引用させて頂いてます)を読んで思いました
樹木希林さんや、内田さんのように
「世間の目より自分を大切にする」
「本当に自分に大切な事を大切に出来る」
そんな生き方に、誰しも憧れる事もあるのではないでしょうか
世間の目<自分 ◎
世間の目>自分 ✖️
え…もちろん◎のつもりですけど…?
皆さんきっと、そのつもり、
当たり前じゃないの!と思うのではないでしょうか
でも
「そのつもり、当たり前」こそが、1番怖いことなんです
なぜなら、当然そのつもり、全く疑ってみないから。
そのつもりでも、全く違う事をしてしまっている事が、人間は、とても多いです。
「同調圧力」という言葉が蔓延して来たので、わかりやすくなったかもしれませんが、社会の圧力、今いる環境というのは、以外に大きなものです
無意識、潜在意識、この領域には
壮大な、目に見えない、大きな力があります
では、日本人にとって、一体「世間」という、このモンスターの正体は、何なんでしょう?
こんな事を皆が一度ゆっくり考えてみると
コロナも、地球や人類にとって、意味のあるポジティブな終息が可能になると思いますが、いかがでしょうか
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内田也哉子さんの挨拶引用↓
私は正直、父をあまりよく知りません。わかり得ないという言葉の方が正確かもしれません。けれどそれは、ここまで共に過ごした時間の合計が、数週間にも満たないからというだけではなく、生前母が口にしたように、こんなに分かりにくくて、こんなに分かりやすい人はいない。世の中の矛盾を全て表しているのが内田裕也ということが根本にあるように思います。
私の知りうる裕也は、いつ噴火するか分からない火山であり、それと同時に溶岩の間で物ともせずに咲いた野花のように、すがすがしく無垢な存在でもありました。率直に言えば、父が息を引き取り、冷たくなり、棺に入れられ、熱い炎で焼かれ、ひからびた骨と化してもなお、私の心は、涙でにじむことさえ戸惑っていました。きっと実感のない父と娘の物語が、始まりにも気付かないうちに幕を閉じたからでしょう。
けれども今日、この瞬間、目の前に広がるこの光景は、私にとっては単なるセレモニーではありません。裕也を見届けようと集まられたおひとりおひとりが持つ父との交感の真実が、目に見えぬ巨大な気配と化し、この会場を埋め尽くし、ほとばしっています。父親という概念には到底おさまりきれなかった内田裕也という人間が、叫び、交わり、かみつき、歓喜し、転び、沈黙し、また転がり続けた震動を皆さんは確かに感じとっていた。これ以上、お前は何が知りたいんだ。きっと、父はそう言うでしょう。
そして自問します。私が父から教わったことは何だったのか。それは多分、大げさに言えば、生きとし生けるものへの畏敬の念かもしれません。彼は破天荒で、時に手に負えない人だったけど、ズルい奴ではなかったこと。地位も名誉もないけれど、どんな嵐の中でも駆けつけてくれる友だけはいる。これ以上、生きる上で何を望むんだ。そう聞こえています。
母は晩年、自分は妻として名ばかりで、夫に何もしてこなかったと申し訳なさそうにつぶやくことがありました。「こんな自分に捕まっちゃったばかりに」と遠い目をして言うのです。そして、半世紀近い婚姻関係の中、おりおりに入れ替わる父の恋人たちに、あらゆる形で感謝をしてきました。私はそんなきれい事を言う母が嫌いでしたが、彼女はとんでもなく本気でした。まるで、はなから夫は自分のもの、という概念がなかったかのように。
もちろん人は生まれ持って誰のものではなく個人です。歴(れっき)とした世間の道理は承知していても、何かの縁で出会い、夫婦の取り決めを交わしただけで、互いの一切合切の責任を取り合うというのも、どこか腑(ふ)に落ちません。けれでも、真実は母がそのあり方を自由意思で選んでいたのです。そして父も、1人の女性にとらわれず心身共に自由な独立を選んだのです。
2人を取り巻く周囲に、これまで多大な迷惑をかけたことを謝罪しつつ、今更ですが、このある種のカオスを私は受け入れることにしました。まるで蜃気楼のように、でも確かに存在した2人。私という2人の証がここに立ち、また2人の遺伝子は次の時代へと流転していく。この自然の摂理に包まれたカオスも、なかなかおもしろいものです。79年という長い間、父が本当にお世話になりました。最後は、彼らしく送りたいと思います。
Fuckin' Yuya Uchida,
don't rest in peace
just Rock'nRoll!!