前回
「この世界はバーチャルだ」
「この世界に本当の意味で困っている人は
一人もいない」
「誰も助ける必要もないし
誰も癒す必要もないし
誰かを教え諭す必要もないし
地球環境をどうこうする必要もないし
世界を平和にする必要もない」
もちろん
したければ大いにすればいいけど・・・
そんな話をした。
昨今では
人生をRPG(ロールプレイングゲーム)の主人公を
操るように自分を俯瞰して生きましょう。
という表現をする人もいるし
みんな魂がしたい「ごっこ遊び」を
しているだけだよ。
という人もいる。
自分の人生という映画を流しているだけだから
別にわざわざ登場人物(自分)に感情移入して
一喜一憂せずに
ただ観客として見ていればいい。
という言い方をする人もいる。
僕自身、ある時期から
今生きている世界をリアルに
そのようにとらえざるを得なくなった。
ゲームのコントローラーを握っているのは
自分のエゴ、思考、顕在意識ではない
その時期、はっきりとそう感じた。
魂が体験したいことを体験するために
僕たちは肉体をもってこの世界にやってきたが
それに反することもエゴは考えつく。
そして
そのエゴから発せられた願望を貫こうとして
なぜか全てが潰されてへチャる。
つまり、すべてが立ち行かなくなり
生き続けるための選択肢が限られてくる
そして導かれるように
それまでと違った道を歩むことになり
自分の人生が開ける。
この一連の流れを僕は
「サレンダー(降伏)」
と呼んている。
コントローラーを握っている「何者か」
(本当のわたし)にエゴが完全降伏すること。
サレンダーしている時
もう流れに抵抗する気は微塵も起こらない。
エネルギー的な話をすると
天地の間で人が完全に筒になっている状態。
筒だから
この世界を満たしている無限のエネルギー
氣、プラーナ、光、無償の愛、慈悲、、、、
が入り放題、出ていき放題。
こうなると
生に対してもあまり執着がなくなり
ベタな表現だが
「いつ死んでもかまわない」
常にそんな気持ちになる。
でもそこに悲壮感はなく
世界をフラットに見るとても
冷静な目があるだけだ。
ここまでは「ズームアウト」して
世界をメタ認知している時のお話。
ただ、肉体を持って有限な時間のある
この世界で生きている以上
目の前のことに意識が奪われるのが人の常だ。
女性の胸の谷間があれば目がいくし
ゲスな男だと思われなぬよう理性もはたらかせるし
臨時収入があれば純粋に喜ぶし
財布を失えば見つかるまで気になるし
体調がよい時は気分もよいし
痛いところがあればゴキゲン斜めで調子も出ないし
家族がみんな元気に集まったらいつも嬉しいし
身近な人が病にかかれば気にかけ回復を心から念じるし
パートナーとハグすればその香りに安心するし
電車で近くのオジサンが臭ければ気が滅入るし
自然の中で川の流れや鳥のさえずりを聞いたら心地よいし
家の近くで耳障りな音がずっと鳴っていたら
物事に集中できないし
人といっしょに美味しいものを食べたら幸せだし
家から出ない日が続くと食事が寂しく感じるし
自分の動画の再生数が伸びたら喜ぶし
Bad評価がつけられたら「てめえ名乗りやがれ!」って
普通に殺意を覚えるし・・・(笑)
これが人生で起こる事象ひとつひとつに
「ズームイン」している状態。
人はあらゆる欲にまみれている。
そこに善し悪しはない。
こうなりたい、こうしたい、という
満たしたい欲
こうなったらイヤだ
これはしたくない、という
避けたい欲
そして
その物差しは人それぞれ違う。
だからさきほどの内容も
前者が善で後者が悪という
わけではなく
ただどれもがフラットな経験の一つ
でしかない。
喜怒哀楽、感情の動きを楽しんでいるだけだ。
ここで何が言いたいかというと
第1話で話したような
「ズームアウト」=俯瞰した物の見方だけ
していると
正直、生きている実感が希薄になる。
そうすると
目の前で本気で泣いている人がいても
「あなたの魂はそれを味わいたいのね。」
で終わってしまう。
それは確かに真実だ。
いや、真理そのものだ。
でも、真理を口にすることには
あまり意味がない。
せっかくこの世界にいるのなら
「つらかったね」って
その泣いている人を慰めること
心を癒やすことで得られる経験
自分もいっしょになって泣いて
感傷にひたる経験
とかとか
もっともっとこの世(仮想現実)の
リアルさを感じられる経験をしたほうが
味わい深いんじゃないか・・・。
そんな気がする。
だから
この世界がしたいことをする
経験の場だとわかったうえで
「バーチャルだ。」
「ゲームだ。」
「ごっこ遊びに過ぎない。」
「したいことしてるだけだ。」
と、常に「ズームアウト」した目線で
冷めた無機質な言葉を使って
真理ばかり語るだけではなく
「ズームイン」して
純粋にまるで何も気付いていないかのように
この世(仮想時空間)での経験という遊びを
喜んだり
怒ったり
悲しんだり
面白がったり
大いに享受すればよいのではないかな。
そして
極端にしんどいなーと
思う出来事、経験に出くわしたら
うんうん、これは
したい経験をするためのゲームだった。と
ふと真我に立ち返ればよい。
もちろん
ゲームが過酷すぎたり
飽きたりして途中で投げ出す人もいる
ズームアウトして見れば
「別にそれも否定すべきことでもない。
その人はその人生の終わり方、自ら命を絶つ
という経験をしたかっただけだから。」
真実ではそうなる。
でも、この仮想空間にズームインしたら
(=この世にどっぷり浸かった視点でものを言えば)
「そんな中途リタイアの仕方をする人が
いない世界にみんなでしようね」
ってなるだろう。
ズームインした「ごっこ遊び」を否定して
さっさと卒業しろと言う人もいるけど
個人的には
したいごっこ遊びを自由に経験したら
よいだけの話だと思う。
自己犠牲ごっこ
お金に困り続けるごっこ
悲しみに浸るごっこ
ハンディを乗り越えるごっこ
などの痛みを享受するごっこ遊びもあれば
個の幸せを追求する
どれだけ自由を謳歌できるかごっこ
豊かさ味わうごっこ
奇跡をどれだけ起こせるかごっこ
もう悟りましたごっこ
もあるし
政治で社会的弱者を救うごっこ
金融システムに革命起こすごっこ
地球環境保全ごっこ
人類の波動上げるごっこ
世界平和ごっこ
など世界に目を向けた
ごっこ遊びをしている人もいる。
善し悪しも優劣も何もない。
みんな遊んでるだけ。
締め方がわからんので今日はこの辺で。
「あなたは何ごっこをしていますか?
そしてこれから何ごっこが一番したいですか?」