http://twishort.com/addqz
より引用。こういう言葉はいつ削除されてしまうかわからないので、自分のところにもらっておく。
インドでは、OSHOという人の著作は宗教的遺産として公共のものだという認識らしい。
それも正式な裁判の結果だというから、インドという国はやはり面白い国である。

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禅——セックス——健康



 禅には、なにかに関する信仰体系がいっさいなく、それにはセックスも含まれる――禅は、それについてはなにも言わない。そして、それが最終的なことであるべきだ。タントラにはセックスに関する姿勢がある。理由? それは社会がやったことを正そうとするからだ。タントラは医学的なものだ。社会はセックスを抑圧した。タントラはあなたがバランスを取り戻すのを助けるための治療になる。あなたは左に傾きすぎている。タントラはあなたが右に傾くのを助ける。そして、バランスを取り戻すには、右に傾きすぎなければならないときもある。そうして初めてバランスが戻る。

 綱の上を歩く人、綱渡りをする軽業師を見たことはないかね? バランスを保つために棒を手に持っている。左に傾きすぎていると感じたら、すぐに右に傾き始める。この方法で彼は真ん中にとどまる。

 タントラは治療だ。

 社会は抑圧的なマインド、生を否定するマインド、喜びに反対するマインドを生み出した。社会はセックスにひじょうに反対している。なぜ社会はこれほどセックスに反対するのか? もし人びとにセックスの快楽を許したら、彼らを奴隷に変えることができないからだ。それは不可能だ——喜びに満ちている人を奴隷にすることはできない。それがトリックだ。悲しんでいる人しか奴隷には変えられない。喜んでいる人は自由な人だ。ある種の自立性がある。

 喜んでいる人たちを戦争に徴兵することはできない。不可能だ。なぜ戦争に行かなければならない? だが、もし自分の性欲を抑圧していたら、いつでも戦争に行ける、戦争に行きたくてしかたがない。生を楽しむことができずにいるからだ。楽しむことができなくなっている。だから、創造力がなくなっている。もはや彼にはひとつのことしかできない——破壊することはできるのだ。全エネルギーが毒になり、破壊的になっている。いつでも戦争に行く用意がある——用意があるだけでなく、それを強く望んでいる。殺したいのだ、破壊したいのだ。

 事実、人間を破壊している最中に、彼は挿入することの擬似的喜びを味わう。その挿入は愛のなかでありえたであろうし、美しいものになれたはずだ。愛のなかで女性のからだに挿入すると、それはまた別のことだ。それはスピリチュアルだ。だが、ものごとが狂ってしまい、誰かのからだを剣で、槍で貫くと、それは醜悪だ。それは暴力的だ。それは破壊的だ。だが、あなたは挿入の代わりになるものを探している。

 もし社会に喜びに関する完全な自由が許されたら、 誰ひとり破壊的にはならない。

 美しく愛せる人たちはけっして破壊的ではない。そして、美しく愛し、生の喜びを味わえる人たちは、競争心も持たない。これらが問題なのだ。

 原始的な人たちにそれほど競争心がないのはそのためだ。彼らは自らの生を楽しんでいる。より大きな家を持つことなど誰が気にするかね? より多額な預金を持つことなど誰が気にする? なんのために? あなたは自分の女や自分の男といて幸せだし、生のダンスを踊っている。最後には大きな貯金ができて、そうなったら引退して楽しむことを期待しながら、毎日毎日、毎年毎年、何時間も何時間も何時間も市場に坐っていたいかね? その日はけっしてやって来ない。それは来られるわけがない。というのも、生涯あなたは禁欲主義者のままだからだ。

 いいかね、商売人は禁欲者だ。彼らはすべてを金に捧げている。

 さて、愛を知り、愛のスリルとそのエクスタシーを知った人には、競争心がない。

 日々の糧が得られれば、彼は幸せだ。それがイエスの祈り、「日々の糧を与えたまえ」の意味だ。それで十分すぎるほどだ。そうなると、イエスはばかみたいだ。彼はこう求めるべきだった。「大きな貯金を与えたまえ」。日々の糧しか求めないなんて? 喜びに満ちている人は、それ以上はけっして求めない。喜びはそれほどにも満たしてくれる。

 競争心を燃やすのは満たされていない存在だけだ。なぜなら、彼らは生はここにはなく、向うにあると思うからだ。「私はデリーまで辿り着いて大統領にならなければならない」とか、ホワイト・ハウスまで行ってあれやこれやになるのだ、と。「私はあそこに行かなければならない。喜びは向うにある」——というのも、彼らはここには喜びがないことを知っているからだ。だから、彼らは常にどこかに行っている、行って、行って、行っている。彼らは常にどこかに行っている、が、けっして行き着かない。そして、喜びを知っている人は、ここにいる。なぜデリーに行かなければならないのか? なんのために? 今ここで彼はまったく幸せだ。彼が必要するものはとても小さい。欲望がないのだ。必要なものはたしかにあるが、欲望はない。必要なものは満たされうる。欲望はけっして満たされない。必要は自然だ、欲望は異常だ。

 さて、社会全体がひとつのことに依存しており、それは性の抑圧だ。さもなければ経済が破綻し、妨害される。戦争がなくなり、それに伴って兵器全体もなくなる。そして政治が無意味になり、政治家はもはや重要ではなくなる。もし人びとが愛することを許されたら、金の価値はなくなる。なぜなら、愛することを許されていないために、金が代わりになる、金が彼らの愛になるからだ。だから、巧妙な戦略がある。

 セックスは抑圧されなければならない。さもなければ、この社会構造全体がすぐに崩壊してしまう。

 世界に放たれた愛のみが革命をもたらす。共産主義は失敗した、ファシズムは失敗した、資本主義は失敗した。すべての「主義」は失敗した。奥深いところでそれらはみなセックスを抑圧しているからだ。その点に関して違いはない——ワシントンとモスクワ、北京とデリーの間に違いはない——まったくどんな違いもない。それらはみなひとつのことで同意する——セックスをコントロールしなければならない、セックスにおける無垢な喜びを人びとに許してはならないということだ。

 バランスを取り戻すためにタントラがある。タントラは治療だ。だから、それはセックスを過剰に強調する。いわゆる宗教はセックスは罪だと言うが、タントラはセックスが唯一の神聖な現象だと言う。タントラは治療だ。禅は治療ではない。禅は病気が消えたときの状態だ。そして、もちろん、病気とともに治療も消える。いったん病気が治ったら、処方箋やビンや薬をいつまでも持ち歩いたりはしない。それは捨て去る。ゴミ箱行きになる。

 普通の社会はセックスに反対だ。タントラは人類を助けるために、セックスを人類に戻すためにある。そして、セックスが戻されたとき、そのとき禅が生じる。禅には姿勢がない。

 禅は純粋な健康だ。

The Diamond Sutraより訳出。邦訳書としては『ダイヤモンド・スートラ』瞑想社刊・めるくまーる発売

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なるほど~って感じ。

「世界に放たれた愛のみが革命をもたらす。」

っていい言葉だな。