We have the strength of the weakness.「弱さの力」を持つ。
「無知の知」が智慧であるような流れで生まれるものとして、「無力のちから」がストレングスだと定義するとして、という考えの続きです。
それは大きな存在としての「弱さ」の中にポツンとあるのではないかと思います。まず、大きな存在というもののイメージは、「無常」(永遠に変わらない、というものなどないという常に流動的な大きな運命の流れ。)であって、絶望的な程に立ちはだかる、「人生からの問い」としての実存的な迫り方をする大きな流れであると考えています。そのような圧倒的な「弱さ」(weakness)の中を漂う私たちが持つものはstrengthという強みであると思う。いや、思いたいと、希望を持って人間を見たいのです。
その「無力のちから」という強みを持っている私たちは一人一人の全ての時間の流れつまり人生が「社会」であると言えると思います。
社会的包摂つまりインクルージョンが叫ばれますが、「社会」に「包摂」されている「(弱い)私」では、決してないと、私は不服を感じています。
最初に話したような入れ子構造の中で、「私」たちの人生が「社会」“を”「包摂」しているのだと、今私は考えています。
「社会」の歯車やネジ一本の「私」では決して無い、「私たち」イコール「社会」が、「弱さ」に内包されて「無力のちから」を持っているのだという理解が、今薄いと思っています。
何かに内包されていると気づいていない現時点での社会と、いかに「対話」し「和解」するかが、「私」という体験文化を持つ人間存在の課題だと思います。
ただし、「場」には「無常」「人生への問い」と表現したパワーがあります。「人間」には「無力」というストレングスがあります。それしか持っていないと言えます。
現時点での社会と和解した先には、パワーの中で漂流するストレングスという模索が待っています。その模索が、「無力感」というものではないでしょうか。
でも、ここで「無力」の持つちからに戻ることが人間には出来ます。
べてるの家で言われる「弱さの力」や「場の力を信じる」という理念は、このパワーとストレングスを眺める視点の、卓越したセンスの高さではないかと考えます。
長くなるので、パワーとストレングス、それぞれへの視点のセンスについては、改めてそれぞれに話したいと思います。
場のパワーについては、「黒土の発酵」のようなものと言える、ということを詳しく日を改めて。
また、弱さのストレングスについても、「安心して絶望する人生」というキーワードと共に、また話します。
(katsuko.)