本ゆりぽ本FUN「近現代史勉強会 08悠仁?本茶

(担当:F大4年 M下目



・第十二回 (2008/06/25)

18.「搾取といふこと」…『平生の心がけ』

    (小泉信三・文藝春秋新書・1966)




  

19.「共産主義と人間尊重」…『同左』

     (小泉信三・文藝春秋新書・1951)







・書評


九大4年・大津君
「武士道
」(新渡戸稲造


ニコニコ 最近、毎回書評をしてくれている大津君。“日本の根幹の考え方、誇りに思える考え方が、本書の中にある”と、深い読みの中にある大津君の気付きを紹介してくださいました。

前回、朝河貫一氏の文献を読んで、武士道を読んでみたいと思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。 ぜひこの機会に、ご一読を!






mai place・大月さん

「日本の私塾」(奈良本辰也)


ニコニコ多くの日本の偉人を輩出した私塾とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。

大月さんは、共産主義思想がまだ日本に入ってくる前、日本らしい精神を学んでいた私塾に注目して、教育への想いとともに、書評してくださいました。









九大4年・竹中君

「パール判決書(原文)」(ラダ・ビノード・パール)


ニコニコ“みんなにプレゼントがある”と言って、一人ひとりに本書のコピーを準備してくれていた竹中君。

感銘を受けた文章を抜粋して紹介してくださいました。


〝When time shall have softened passion and prejudice,when Reason shall have stripped the mask from misrepresentaition, then justice, holding evenly her scales, will require much of past censure and praise to change places.〟


(時が熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには、そのときこそ、正義の女神は、その秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くに、そのところを変えることを要求するだろう。)


この感動をみんなにも、という竹中君の気持ちが嬉しいですね。







福岡女子大4年・宮園さん

「福沢諭吉」(小泉信三)

「マルクス死後五十年」(小泉信三)

ニコニコ“今回の文献を読んで、小泉信三さんと福沢諭吉さんの関係を知りたくなって”と、早速本書を探し、書評してくださいました。

「マルクス死後五十年」については 改めて次回書評してくださるとのこと。 楽しみにしています!








アップ今回 増田君、井上さん、諌山君、竹中君、大月さん、森川くん の6名の方が感想を述べてくださいました!

原田君も、遠方から感想を送ってくださって、とても嬉しかったです。

みんなで学びの深まりとともに、コメント力も鍛えていけたら、素晴らしいことですね音譜

 




・参加者の目(文責:Q大4年 T中)

「搾取といふこと」…『平生の心がけ』

「おれ達は金持ちに搾取されている」


「こんだけ頑張ってるのにこんな時給はありえない」


「なんで上司にペコペコしなければならないんだ」


これらの愚痴を延々とこぼす人々は、


おそらくこの問いに対して同じ解答を書くであろう。


Q.『給料は誰が払っているのか?』


⇒A.会社


極めて基本的な問題であるがともするとこのような誤答が生まれる。


冷静に考えればわかることだが、会社は給料を払わない。


嘘だと思ったら試しに起業してみることをお勧めする。


会社を作っただけではお金は生まれないことが身をもってわかるだろう。


そう正解はこう。


Q.『給料は誰が払っているのか?』


⇒A.お客様


この言われてみれば至極当然な原理を忘れると、


「悪いのは全て会社」


「悪いのは全て社長」


「自分は搾取されている」

といった負の感情、さらには被害妄想に囚われ、


出口のない迷宮を終わりのない虚無感と共にさまようこととなる。


さて、本日の文献著者は小泉信三氏。


著作『共産主義批判の常識』において、


ただ私は、マルクス、レニン主義を批判するに方つて何よりも厳正の一事を心がけ、証拠なくして断定することは最も慎んだ


何分本書の如き小冊子では具に原文を引いて論ずることは出来なかったが、マルクス、レニンの学説主張は、何れも其真意を正しく解して取り扱ふことを期し、敢えて彼らの不用意の失言に乗ずるといふことはしてないつもりである〟


と自らが嫌うものに対してもフェアプレイ精神を忘れない姿勢を宣言した彼の名著に触れた。


その一節、「搾取といふこと」において、


普段当たり前のように使われている「搾取」という言葉が、


労働価値説を前提としており、さらにその成立が困難であることを示している。


以下、本日の文献を参考に簡単にモデル化してみる。


【前提】

「労働価値説」…全ての生産物の価値は労働量のみによって定まる。


【搾取の定義】

「搾取」…労働の価値>労働の価格=賃金


このように労働価値説を前提においた場合に、


本来の労働の価値に見合った賃金が支払われていないことを「搾取」という。


いかにも最もらしい数式と理論のようでうっかり納得してしまいそうだがココで一つ問題がある。


「労働の価値」とはどうやって決まるのか?


この問題の鍵を握るのは需要(お客様の購買意欲)という概念である。


生産物の価格が需要と供給の妥結点であることは否定しがたい事実であり、


一般に供給が一定の場合、需要が増えれば価格は上昇し、


反対に低ければ価格は下落する。


すなわち生産物の価値とは、需要の強弱に依存するのである。


であるならば生産物の価値の構成要素である労働の価値も、


需要の強弱に依存することを認めざるを得ないはずである。


つまり生産物に対する需要が多ければ価格、


すなわち労働者の価値も上昇し、賃金も増えるのである。


簡単に言えば、労働の価値を決めるのは労働者自身ではなく、


現実にあるお客様の購買意欲である。


例を一つ挙げよう。

ここに海底100M地点で採取された真珠と砂がある。

労働価値説によると、この真珠と砂は海底100Mまで潜るという同じ労働量であるから、

同じ価値という結論にいたる。


無論これはおかしい。

仮に「いや、その砂にも価値がある。私なら真珠と同等の金を出す」

という反論があるにしても、その時点で「私」という存在があって初めて、

労働者の価値は認められるわけである。

よってこの搾取という考え方は、実際にお金を出すお客様という存在が忘却された、

労働者の主観的な理論だといえる。


結局のところ冒頭の「給料は誰が払っているのか?」という問いに帰結する。


給料を支払うのはお客様。


この最も基礎的で大切な部分を心に刻み込み、正しい努力を継続できる新社会人を目指そう。


「共産主義と人間尊重」…『同左』

     (小泉信三・文藝春秋新書・1951)


「信じられない!」

「そんなはずはない!!」

「まさかこんな事が現実に…」


20xx年、日本は未曾有の恐怖に包まれたドクロ

仁、徳、義を唱え、多くの人から尊敬の眼差しを集める偉人、

孔子・孟子が100万の軍隊を率い、福岡の地を占拠したのである叫び


彼らの要求は唯一つ。日本の無条件降伏である。

政府与党はすぐさま特別対策委員会を設置。

状況の把握と打開策の検討を急いだ。


閣僚たち全員は青ざめた表情カゼ

何せ、あの孔子・孟子である。

「なあ、どうしたらいいと思う?むっ

「いやーまいったね、正直どうしたらいいかわからない得意げ

「てか、あの二人なんだからきっとわけがあるに違いないガーン

「そうだねーここはおとなしく無条件降伏しようしょぼん


20xx年。

ここに日本国は滅亡し、忠家人民共和国の属国となったのであった。


注:『先哲叢談』にある山崎闇斎と弟子たちの問答を参考にしたフィクション。



〝嘗て門弟等に問ふて曰く、今彼の邦から孔子を大将孟子を副賞とし、

兵数万を率ゐて我邦に来攻したならば、孔孟の道を学ぶ吾々は抑も

如何にすべきであるかと。


弟子たちはみな答えることが出来ず、私どもには如何致したら宜しいか

分りませぬ。願わくば先生のお説をお聞かせ下さいといつた〟




読者の方々ならなんと答えるであろうか?

続きを見てみよう。




〝闇斎の曰く、不幸若し此厄に逢ったならば吾々は、身に堅甲を被り、

手に利剣を執り、これと一戦して孔孟を擒にし、以て国恩に報ずる。

これが即ち孔孟の道であると。云々〟(〝〟内は本日の文献より抜粋)





果たして「孔孟と戦う」という選択肢が頭に浮かんだであろうか?

これが思想の独立性ということである。


小泉氏は、共産主義者が、マルクス、レーニン、スターリンをはじめとする

権力者に阿諛追従し、自らの思想を確立していないと指摘する。

そのため手のひらを裏返すように発言内容が変わり、一貫性がないとの指摘をする。


しかしこれは現代の私たちに突きつけられた課題である。

決して他人事ではない。

弱腰外交などと政府を批判する資格がそもそも私たちにはあるのだろうか?

他人には譲れない軸というものがわたしたちにはあるだろうか?


最後に小泉氏の優れた指摘をもって、本日の締めとする。


〝それは自ら思考し、自ら見るところによって判断する代わりに、偏に権威の縄墨に従い、これに隷従して安んずる事大精神から起こる。


小さい心に、無理に他人の学説を詰め込んだ結果、寛(ゆたか)に胸を開いて、人命と人格とを重んじ、同胞民族の疾苦と艱難とを、自由なるわが真情をもって察することを忘れるところから起こる。


山崎闇斎の門人の例は、決してよそ事ではない。

それは今の日本の吾々が、常に自他相戒めなければならぬ前鑑である。

私は深くそう思うのである。〟


・GW 感想


★今までの講義が、自分の中でまとまった。発想の転換、“源”を感じた。
共産主義思想を学んでいく中で、“はっとさせられる=自分が如何に共産主義思想に毒されているか”と言うことに気付く。

★自分の中にも共産主義思想がある。勉強していくことの大切さとともに、判断基準をしっかりと持たなければ。

自分なりの思考力を培うための教科書じゃなく、教科書に載っていることをそのまま自分の考えにしていた。

歴史教育(想いを学ばない歴史)の怖さを改めて感じた。

★思考の独立性、考えるということ。

“その人が言ったから”ではなくて、“その人の○○と言ったことを・思想を見て生きたいと思う。

最近ニュースを感情で見なくなり、事実と向き合おうとしている自分に気付く。

勉強はしたものの、自分の判断基準を失ってはいけない。そうならないように、思想を鍛えていきたい。

“勉強を通して、自分は(長期的な視点で)何のために、どうなりたいか”を考える。




               <近現代史写真館>