攻殻機動隊StandAloneComplex、1stシーズンのある一場面より。

思考戦車(自律的に考え行動する戦車)「タチコマ」のセリフ。


「なんだか前にはよくわからなかった、"神"ってやつの存在も、

 近頃はなんとなくわかる気がしてきたんだ・・・。

 もしかしたらだけどさ、数字の"ゼロ"に近い概念なんじゃないかって。

 要するに、体系を体系足らしめるために要請される、"意味の不在"を

 否定する記号なんだよ。そのアナログなのが"神"でデジタルが"ゼロ"。」


ここでタチコマが言う、「神」による意味の不在の否定を行っているのは、人間という体系なのだと思う。

しんたろうが書いてくれた「職業」の言葉の由来からしても、人間的な活動に「意味づけ」を行うものとしての神の役割の一面が垣間見えるように思える。


ちなみに、ゼロという数字が発明されたのは、7世紀頃のインド。

過去の高度文明でも、ゼロ(数が無であること)の存在は意識され使用されていたものの、

数学(数字)として体系化するに至っていなかったみたい。10進法そのものが比較的新しいものなんだ、たぶん。




そして、こんな捉え方も。(wikipedia氏より引用)


「0 の理念は、仏教では「空」、サンスクリット語では「シューニャ 」(शून्य, sunya) として表現された。

「空」の仏教的意味は「膨れ上がった」「うつろな」の意味であるが、膨れ上がった物は中が空であるとの考え方から来ている。」



一方で「シューニャ」とは、

(http://www5a.biglobe.ne.jp/~fjelc/biblestudy/ecclesia1.2.11.html より修正の上引用)


「仏教の「空」は、サンスクリット語で「sunya(シューニャ)」といい、元来は「欠如」を意味する言葉でした。しかし、『般若経』が成立するにつれ、「何ものにもとらわれないこと」を「空」と呼ぶようになる。

大乗仏教を『般若経』によって体系化させた龍樹は、この世に存在するすべてのものは相対的であり、それぞれの関係によって成り立っているのだから、それぞれに存在するものの是非を問うことも善悪を問うことも無意味であり、何ものにもとらわれない「空の立場」で中道を歩むべきだと教えました。


仏教(般若経)の「空」は、数学の0であり、0を基点にプラスとマイナスがあり、また、0によって位取りが進んでいく十進法が生み出されたように、0はすべての基点で、「空」もまた、すべての存在や事柄の基点となるものであるというのが、その教えです。」


つまりは、仏教における「空」が、ゼロを体系として取り込んだ原初であると言え、なくはない。

しかし、インドでゼロが生まれたことと、空という考え方は関係がある、と見ていいと思う。



そろそろ時間なので書きかけで失礼します。

結果的には、近代化を達成した資本主義が根付く・根付かないは、宗教ないしは神の存在の影響を受けているんじゃないかと。そして、その神の正体とは、「ゼロ」の概念である、と。

結局、宗教って形骸化した、創始者からの「教え」や「引き継ぎ」であるし、その強力なツールとして「神」が存在しているんじゃないかな、思っています。


また今度!


ゆうじろう(商の小さいほう)



「文化の広まりが取引費用を下げる点を強調する経済学者もいる。宗教や言語は国民にとって共通の価値観を生み、異文化間での対立を避けることが出来る。」(『これも経済学だ!』 p.78) 
宗教も経済学で分析できるのか!

ある地域での宗教とその経済力との関係についてすこし思ったことは、イスラム世界の中世での強大さと宗教改革後のヨーロッパ圏内での市場原理の勃興については多少説明がつきそうな気がする。

まずイスラム教はムハンマドが教祖だけど、彼の出身は商家だったので商業には比較的寛容だった。ぼくの直感がいうところには、商業というのは本来宗教があまり好かないものであるから、イスラム世界の商業は他の地方から利益を得るということがなんとなく決まっていた、のだとおもう。だから共同体内での商業よりも、西と東を結ぶ結節点として東西の差異を利用した商業活動をしたんじゃないだろうか。

イスラム教の元であるユダヤ教でも商業を禁止しながらも他民族とのそれは許容しているし、同じように他地域とは利益重視の交流を行って、共同体内ではマックス・ウェーバーのいう「兄弟盟約」のようなつながりのなかで過ごしていたんじゃないか。
(兄弟盟約とは「人々の法的な全資格を、すなわち彼らの相対的な地位と社会的な行動様式とを変更することをその内容とする」契約の形態であり、具体的には、それによって人々がおたがいの「仲間」あるいは「兄弟」に「なる」ことを意味している。)『ヴェニスの商人の資本論』p.10 岩井克人

つまり「他人とは商業を仲間とは兄弟みたいに付き合うこと」という考えが宗教イデオロギーとして合意されていて、それが中世イスラム世界の強大さ(兄弟さ?)につながったのでは、とおもった。

後半の宗教改革以降のヨーロッパについては、このイスラム的な雰囲気とはまったく異なったことがおきていたんじゃないか!?

つまりプロテスタンティズムの誕生以後、ヨーロッパ「内」で市場原理が頭をもたげてきたけど、商業を卑しいとしていたキリスト圏内でなぜ「兄弟盟約」が崩れたのかということの理由は、プロテスタンティズムによって人々の間の合意が改変されたことにあるのじゃないか。

すこしわき道にずれます。英語のはなし。vocはvocalやvocabularyにあるように「声・言葉」という意味だけど、聖書によれば「言葉=神」で言葉は絶対的なものらしい。だからvocにはポジティヴないみがある。advocateをみるとわかる。adは'to'という意味で、たとえばadjustはピッたし(just)の方向に(ad)ということで「調整する」という意味になる。advocate~は「言葉」を「~の方向に」投げかけるということになるとおもう。そして意味は「支持する」ということだから、言葉がプラスの意味を持つのは分かる気がする。

話はまたプロテスタンティズム。ルターは聖書を訳す時にder Berufという言葉をふたつの意味でつかった。それが「言葉」と「仕事」だった。英語でも天職のことをvocation(vocがある)という。つまり仕事っていうのは「神に与えられてものだから」勤勉であるべし、たくさん働いて貯蓄すべし、という合意が自然に心に入ってきたんじゃないか、とおもう。しかもプロテスタンティズムは「個人」と神の結びつきを重視する。ここで「個」が際立ってくる。

「兄弟盟約」よりも「個」だから共同体「内」で市場原理が栄えたのはこのことが背景としてあるのかなぁ。
「宗教と経済」おもしろいすね。
gayoku