社会人になって、はや半年が経ちました。英語では新人のことを "Freshman" と言います。諸先輩方のなかには、この「新鮮さ」を羨んでくれる方もいますが、当人たちは「早く熟したい、成長したい」と思うのが普通です。

今回は、そんな「成長すること」について考えてみようと思います。実は、「成長すること」に対する僕の考え方はここ1、2年でだいぶ変わったように思います。そしてその変化を僕は良いことだと感じています。「成長に対する考え方も成長した」ということです。

成長を測る一つの物差しとして僕は、「一年前の自分と現在の自分を比較してみる」ということをします。以前は「成長」=「一年前の自分を言い負かせる」というのを基準にして「あぁ、今年はだいぶ成長したなぁ」とか、「今回はちょっとなまけたなぁ」を結果としていました。

だって「言い負かす」をするには、相手より知識をもっていたり機転が利いたりしないといけないですから「一年前の自分を言い負かせる」ためには、その一年、相応の努力を払わなければならないからです。だから「成長」=「一年前の自分を言い負かせる」だったのです。

例えば、自分で作っている英単語ノートの一年前のエントリーをみて、「こんな単語も知らないのかよぉ。"drudgery"とか"augment"なんてもはや基本単語だね」と鼻高々になったりしてました。そうして、一年前の自分を言い負かせてこれました。

でも、これ、諸刃の剣なんです。「言い負かす」と同時に「言い負かされて」いるからです。誰にかといえば、「一年後の自分に」です。当たり前ですね。毎年、「一年前の自分を言い負かせてこれた」んなら当然「一年後の自分は現在の自分を言い負かす」はずですから。勝った喜びと負けているだろうという悲しみが同時にあるんです。

そうすると少し問題なんです。学習意欲が削がれてしまいますから。「成長した一年後の自分には必ず負ける」という実感があると、なるべくその「負け」を小さくしたいという気持ちが無意識にも働いてしまいます。それはきっと、今まで読書していた時間を惰眠に費やす、教育番組でなくバラエティをより多くみる、など小さい行動の変化に帰結してしまう。「過去の自分に勝つことだけを考えることが現在の自分の未来志向性を弱める」ということがあるということです。

「だから成長に対する考え方を変えよう」と僕は思えたらよかったですけど、残念ながらそこに考えは至りませんでした。ただ、いつのまにかそれが変わっていて、いま考えると「良い変化だったなぁ」、「成長に対する考え方が成長したなぁ」と思えているに過ぎません。

前は「一年前の自分を言い負かすのが成長だろう」でしたけど、いまはどちらかといえば「一年前の自分をきちんと認めて、楽しく会話できるのが成長だろう」と考えています。「楽しく会話する」なんてことは前の考え方では想像しづらいです。「どっちが言い負かすか」を基準にしていたらきっとギスギスした会話になるに違いありませんから。

「きちんと認める」ためには、「ものの見方を増やす」ことが必要だと僕は思います。皆さんには既に当たり前のことかもしれませんけど、「同じものをみていてもひとによってその見え方は違う」んですね。

よく、「ポジティブかネガティブか」をはかるテストで、水が半分注がれているグラスを「半分入っている(half full)」と表現するのか「半分入っていない(half empty)」と表現するのか、といったものがあるように、「同じもの」をみていてもそのひとの考え方や立場や視点・視座によって、「その見え方」は違ってくるということです。本当に当たり前のことですけど。

それは「どちらかがあっていて、どちらかが間違っている」といった類のものではない。そう言った時に相手を認めるには自身が「ものの見方を増やす」ことが必要とされると思うんです。

フランスのフランソワーズ・サガンという女性小説家は、『悲しみよこんにちは』の作者で、大哲学者ジャン・ポール・サルトルとも深い親交がありました。インタビューで「
あなたにとって知性とは?」と聞かれてサガンはこう答えます。

「知性とは、一つの問題に対して多くの視点から考えられる能力。視点を変えて学ぶことができる能力。」

この「知性」を「成長」に入れ替えたら、僕のいわんとしていることと同じです。そして、サガンはその後に「頭の良いひとに悪いひとはいません」と言いますが、僕も同じように、「成長したひとは他者と楽しい会話ができる」と信じています。

以前の成長に対する考え方との違いをもっといえば、「直線的な成長から複線的な成長へ」の変化と言えるかもしれません。「直線的な成長」というのは成長というのを一方向だと仮定していて「xが増加した分、yが増加する」ということです。「一年時間が経った分、知識量が増える」と言った感じです。英単語の例なんてまさしく、です。

「複線的な成長」というのは、一方向でなく多様な方向への道程が考えられるということです。周りにいる仲間だったり、所属している場所だったり、出会った本だったり、その時々の状況によって様々な方向へ進んでいく。そしてその方向が多岐にわたることを自覚することによって、「楽しい会話」へと結ばれていく。すくなくとも僕はそう思っています。

これがここ1、2年で起きた「成長に対する考え方」に対する僕のなかでの変化でした。実は、これも今変化している最中です。その実際には数年後の僕が、きっと楽しそうに教えてくれるはずです。

しんたろう
もう2年程まえになりますが、上野の国立博物館で開催されていた「ノーベル賞 110周年記念展」に行ってきました。そこでは「日本人でノーベル賞を受賞したひとびと」を紹介しているエリアがあって、例えば湯川博士や江崎玲於奈などの業績が展示されていました。

そのときの僕の感想は「理系の方がずっとたくさん受賞しているなぁ」、でした。ノーベル文学賞を受賞した日本人は68年の川端康成さんと94年の大江健三郎さんの二人だけです。

これ、なんででしょう?

一つには「理系はどこでもルールが一緒だけど、文系、とくに文学に関しては、ところ変わればなんとやらだからでしょう」と僕は思います。だってそうでしょう。イギリスで使われている物理法則が日本では通用しないなんてことはないです。少なくともノーベル賞の対象となる研究に関してはそんなことあるはずがない。同じルールのもとで競争できます。

でも、文学は違いますよ。理系での専門用語は定義がきちんとしていますけど、文学での翻訳は大事な部分が抜け落ちてしまうことがある。「おまえ、ばかだなぁ」と “You, stupid” というのは多いに違ってくることもあるんです。ですから「ところ変われば、しな変わる」で同じ土壌では闘えません。しかも、「受賞に足るかどうかの基準」が作られているのは欧州です。不利な闘いです。

「アジアの文学よりも欧州のそれの方が成熟している」という見方は少なからずあると僕は思います。ロジャー・パルバースさんのように「そうじゃないよ、日本の文学、すごいよ」と言ってくれてたくさん翻訳をしてくれる方もいますが、日本文学の「おまえ、ばかだなぁ」をそのコンテキストも含めて外国に渡すことができるかというと、それは当然不可能なことですから、ある程度「他の言語にしばられた作品」に対する評価となるしかない。川端さんだってノーベル賞受賞時に「半分は翻訳者であるサイデンステッカーさんのおかげだ」といって賞金も半分渡していたりします。

小林秀雄(文系のヒーローみたいな人です)は、合理性というものに関して講演をしたことがありますが、その内容がこの「理系は同一ルールで文系はそうでない」ということを理解するうえで面白いことをいっています。

小林秀雄は合理性というのは「理に適っている」のだから、「こどもでも理解できること」だと断じました。もちろん「おじいさんにも理解できること」でもあります。「物理法則はところ変われどもしな変わらず」ということに似ています。
その一方で小林は孔子のことばを引用して「こどもでは理解できないことがある」ということを説きます。そのことばとは「十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順がう。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。」というものです。

これが教えるのは、「年を重ねるにつれてひとは変わっていく」ということです。ですから「年をとって初めてわかるものがある」ということを言っているともいえます。これを紹介した上で小林は「年をとってこどもでも分かるような合理的なことばっかり言っていたら、せっかく年をとった甲斐がないじぁないか」と諭します。「あのじじい、言ってることがわかんねんだよなぁ」と言われて初めて年を取った意味が出てくるといったことを語ります。

ノーベル賞の話にちょっと戻りますが、日本というのは欧州に比して「こども」でありました。もちろん「欧州の物差しで測って」、ですけど。明治維新で日本は「近代国家になる道」を採択しました。「欧州に追いつけ、追いこせ」がスローガンになったのです。ということは自ら望んで同じ物差しで測られるところへいったとも言えるかもしれませんね。

とりあえずその状況ではまだ近代国家としては「こども」の状態です。でも、そんなこどもが49年にはノーベル物理学賞を獲ります。「合理なるものは大人/こども関係ない」ということの良い例だと思います。

「真実」のことを英語では “The truth” と “The” をつけて表します。その定冠詞は「特定の物」にたいして使われる物ですが「真実はひとつ」という感覚が欧州の人にはあるのでしょう。ヨーロッパ人でもアメリカ人でも日本人でも同じ真実をもっている、ということです。イザヤ・ベンダサン(山本七平さん)の『日本人とユダヤ人』・『「空気」の研究』などでは一神教的な「真実はひとつ」の感覚がとてもよく説明されていたと思います。

でも(となんでも言っていますが)、文系的にはちがいます。解釈はひとつではないし年をとらないと分からないことだってある。本当の話(“The” truth)をしているだけでは上手くいかないことだってある。「合理的なはなし」はこどもでも分かりますが、「人間のはなし」は経験をもったおとなでないとわからないことだってあるんです。

ですから理系脳に偏向してしまっているひとと話すと、「でもさぁ、実際はこうこうこうで~」といった「本当の話」をしてしまって相手を困惑させることもでてくるんだと僕は思います。「本当のことをを脇に置く」が出来ないのはこどもの特権です。「おとな」にはそれができない。

僕は文系の人間ですからこういった「文系寄り」の視点を持っていますけど、「ゴリゴリの文系脳」と話していても当惑しますから、実際は「文理分け隔てなく触れていくのが一番だ」といった当たり前のことを落としどころにしたいと思います。

しんたろう
お久しぶりです。
のぶてるです。

今週のしんたろうの投稿に続き僕も、ブラック企業について思うことを書いてみたいと思います。

しんたろうは、消費者の視点からブラック企業に恩恵を受けている消費者が多いため、ブラック企業に面と向かって抗議できない現状を説明してくれました。

ちょっと視点を変えて「労働者の視点」からブラック企業を見てみるとまた違った側面が見えてきます。

さて、労働者の側から見た「ブラック企業」の定義は何でしょうか?「労働時間で決まるのか?給料で決まるのか?仕事内容で決まるのか?」人によってイメージはバラバラでしょうが明確な定義はないと思われます。

とすると、自分の働く企業がブラック企業かどうかは絶対的な基準よりも相対的な基準によるものではないでしょうか。おそらく、社会全体で見て「労働時間、労働環境、給料を総合的に判断した結果、劣悪な下位数%の企業」が「ブラック企業」になると思われます。

そう考えると、今世間で騒がれている外食産業のブラック企業がなくなってもまた別の業界でブラック企業が現れてくるのではないでしょうか。ブラック企業は不滅な存在だというのが僕の意見です。

ブラック企業が仮に無くならないとしたら、私たち労働者1人1人の意識が大事になってくると思います。いくら労働条件が過酷でも、上司の言いなりではなく、自分自身の意志で考えて働いていたら、ちょっとブラック企業の社員という感じではないと思います。

上司の言いなりで受動的に働き続けるのではなく、少しでも自分の意志で働き続けるのが社会的にブラック企業と言われている会社に勤めている労働者だけではなく、すべての労働者が自分自身の会社をブラック企業にしないためにも求められていることではないでしょうか。

のぶてる