第五相模湯(九之湯) | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

第五相模湯(九之湯)

大田区南六郷二丁目の「第五相模湯」に浸かってきた。

大田区西六郷には「第一相模湯」がある。ということは、六郷の地域には、少なくても第一から第五まで、相模湯と名のついた銭湯があったということだろうか。残念ながら、現在では第二から第四までは、欠番になってしまっている。

ゆったりと入浴した後は、この辺にあって子供の頃に通った模型店を探してみた。
その名は、知る人ぞ知る「ピノチオ模型」である。

僕が通ったのは、1960年代。小学生高学年から中学生までだ。
当時は、町の中にいくつか模型店があったが、その中でも「ピノチオ模型」は、僕のような貧乏人の子せがれには、敷居が高かった。主流のプラモデルも置いていたが、普通の模型店にはないエンジン付きの模型飛行機(Uコン)、そして何よりOゲージ、HOゲージの鉄道模型が、豊富に展示されていた。当時の年齢は不詳だが、店主のおじさんと、おそらく常連の大人たちが交わす会話をはたで聞くのも楽しみだった。

しかし、Oゲージに比べて小ぶりのHOゲージであっても、真鍮製の機関車ともなれば当時でも完成品は数万円はした(今なら、数十万円だろう)。それならばと、自分で真鍮板を切り抜き、半田付けして、手作業で機関車を作り、連結する貨車や客車を少しずつ買い揃えて運転することが楽しくて仕方がなかった。

戦後の経済成長と「ピノチオ模型」は、同じようなペースで歩んだのだろう。東京オリンピックも終り、世間で「もう戦後は終わった」とか「一流国の仲間入り」などと言われるようになった頃、「ピノチオ模型」は自社ブランドのHOゲージの製品を発売した。先行他社が、当時の国鉄の車両に力を入れていたので、後発の「ピノチオ模型」としては、私鉄の車両に注力したのだと思う。ニッチ戦略である。近くを走る京浜急行の電車が人気を呼んだのではないだろうか。ディテールにこだわって、決して手を抜かない、良質なイメージだった。

高校に進んだ頃から、僕は、模型からは離れてしまった。文学とか音楽とか映画とか、他のものに興味が移ったこともあるし、如何せん鉄道模型(HOゲージ)は、ドラ息子の趣味としては、わが家の家計にとって、ちと負担が重かった。

しかし、僕の模型離れなど物ともせず、「ピノチオ模型」は、1970年代から1980年代にかけて、発展を続けた。鉄道模型の購買層を支える日本の経済的基盤がしっかりとしていたのだろう。HOゲージの分野で、「ピノチオ模型」は、高級ブランドを確立した。僕が通った頃は、木造の店構えだったが、その後、建て替えられて、たまに模型雑誌などで見ると、何やらヨーロッパのお城風になっていた。

これを「バブル」と言うんだな。そして、「バブル」はいつしかはじけるものだ。日本経済が、失われた30年といわれるトンネルに入り、「ピノチオ模型」もまたトンネルに入ってしまった。店主も、初代から二代目に変わった。

いまや、たまに模型店を覗くと、鉄道模型の主流は、Nゲージである。線路の幅は、HOゲージのさらに半分。したがって、車両の大きさ(体積)は1/8になるから、本当に小さい。僕らの世代には、グリコのおまけのように見える。しかし、ディテールは、驚くほど精緻に再現されている。真鍮の半田付けではなく、精密なプラスティック・モールディング技術の賜物である。値札を見ると、これまた驚きである。「えっ? こんなに安くていいの?」という値段なのだ。

この変化に「ピノチオ模型」はついて行けなかったらしい。と言うか、ついて行こうとは、思わなかったのだろう。そして、ネット上で調べると、2013年をもって、店を閉じたそうだ。バブル崩壊から、20年余り。よく頑張ったと言うべきだろう。

第五相模湯から、「ピノチオ模型」までは、歩いて2分ほどの距離だ。南六郷の周囲の街並みからは、ちょっと異質だが、今でも、ヨーロッパのお城風の建物は健在だった。この新しい店舗の中には、鉄道模型好きが集まるサロンのようなスペースもあったと、友人から聞いたことがある。あくまでも、高級志向だったのだ。

子供の頃、僕が住んでいたところから「ピノチオ模型」までは、歩いて30分以上はかかった。京浜急行の雑色(ぞうしき)駅の踏切を渡り、京浜第一国道を越えると、水門通りの商店街に入る。そこを歩いて行って、右に曲がると木造建ての「ピノチオ模型」があった。あの時の胸躍るようなワクワク感!

「昭和は遠くなりにけり」……