プッシー・ライオット:古希の猛省 | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

プッシー・ライオット:古希の猛省

毎朝、朝刊を開く。いや、デジタル版をiPadで「開く」のだが。

僕は、それでも「紙面ビューア」で読むことにしている。

記事の配置と活字の大きさから、編集の意図を感じ取れると思っているからだ。

 

「折々のことば」の配置と活字の大きさは、変わることがない。

朝日新聞の第1面に定位置を与えられている。

現在は、鷲田清一が執筆している。

大阪大学総長、京都市立芸術大学理事長を務め、功成り名を遂げた鷲田清一が選ぶ日々の言葉を、毎朝ちらりと見て、九割方は「やっぱりね」という感慨を持つ。その後に続くのは「なんだかな」なのだが。

 

今朝は、違った。「鷲田さん、ありがとう」と心底から思った。

 

低賃金労働と戦争をアウトソーシングしているのと同じように、私たちは政治闘争をアウトソーシングしている。
(ナージャ・トロコンニコワ)

 

美しい言葉ではないか。原文はロシア語だろうが、野中モモさんの訳を通して、魂が伝わってくる。

朝の寝床の中で涙が出た。寝ぼけまなこのあくびで出た涙ではない。

 

われわれ21世紀に生きる人間は、非人間性の代表格である「低賃金労働」と「戦争」に自らの手を汚すことなく、「アウトソーシング」という卑劣な手段を弄している。汗を流し手を汚す「労働」の苦痛と、殺し殺される「戦争」の恐怖から逃げ出して、どうして「平等」とか「平和」を語れるのだ。最小限の文字数でその矛盾を提起する。ナージャ・トロコンニコワという僕の知らない人は、並外れた表現者だ。

 

前半が五七五の上の句だとすると、後半は七七の下の句だ。ここにおいて、メッセージは帰結する。

非人間性から脱却するための手段であるはずの「政治闘争」まで、われわれ21世紀に生きる人間は、「アウトソーシング」してしまっている!

 

なんという慧眼であり、洞察であり、警句であろう。

わずか50文字ほどの中に真理が語り尽くされているではないか。

万葉集の中に自分だけの一首を見つけたように、味読するほど、感興が湧いてくるというものだ。

 

ナージャ・トロコンニコワという方は、ロシアのフェミニスト・パンクグループ「プッシー・ライオット」の創設メンバーだという。

バンドを結成した時には、哲学を学ぶ22才の学生で、すでに3歳の娘がいたという。

『ドクトル・ジバゴ』のラーラのような、ロシアの大地に根ざした女性を想像してしまう……。

 

彼女の著作である『読書と暴動』では、以下のような人物が言及されているという。

 

ペーター・スローターダイク、パゾリーニ、フーコー、ヴィヨン、マヤコフスキー、ディオゲネス、マイケル・スタイプ、プルードン、カント、チョムスキー、D.A.プリゴフ、トリスタン・ツァラ、ヒューゴ・バル、アイ・ウェイウェイ、ナオミ・クライン、ティモシー・スナイダー、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、アレクサンドラ・コロンタイ、オレグ・クリーク、カジミール・マレーヴィチ、マクルーゼ、マルクス、ディアギレフ、ドゥボール、ゴダール、ブレヒト、バルト、ヴォルフガング・シュトレーク、スティグリッツ、ソウル・アリンスキー、エーリッヒ・フロム、ソルジェニーツィン、ジョージ・オーウェル、ハワード・ジン、ドストエフスキー……。

 

ワォ。はるか彼方から、革命の行進の足音が聞こえてくる。

その先頭に、カラフルな目出し帽をかぶってエレキギターで激しいリズムを刻みながら、マイクに向かってシャウトする「プッシー・ライオット」の姿が見える。

その足音と歌声は、しだいに近づき大きくなってくる。

 

「爺よ! 寝床から出よ! 行進に加われ!」