きっと、うまくいく:試練の3時間 | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

きっと、うまくいく:試練の3時間


きっと、うまくいく
3 Idiots

監督:ラージクマール・ヒラーニ
脚本:ラージクマール・ヒラーニ、ヴィドゥ・ヴィノード・チョープラー、アビジャート・ジョーシー
原作:Chetan Bhagat『Five Point Someone』
製作:ヴィドゥ・ヴィノード・チョープラー
出演:アーミル・カーン、R・マドハヴァン、シャルマン・ジョーシー
音楽:シャンタヌー・モイトラー
2009年 インド映画

衆議院議員を長きにわたって務め、数回の国務大臣を務め、現在は日本の首都東京の都知事である人物が、その学歴を問われている。エジプトという日本から遠く離れた国の、カイロ大学というその国を代表する国立大学を卒業したと公言してきたが、その学歴は虚偽なのではないかと疑われているのだ。

真面目に学校に通っていたか、勉強していたか、定期試験を受けて進級したか、卒業論文は書いたか、そして、その結果として、(卒業証書といわれるものに記載された年月に)正規に卒業したか、それらの問いに都知事はいっさい答えていない。ご本人は「カイロ大学が卒業を認めているのです」の一点張りである。

僕が大学を卒業したのは、もう50年ほど前のことである。真面目に学校に通っていたか、勉強していたかと問われれば、それは「否」である。しかし、定期試験を受けて落第することもなく進級し、卒業論文を書き、卒業証書を授与された。たまに、「本当は卒業していなかったのではないか」という悪夢にうなされて、深夜に目覚めることがある。真面目に勉強しなかった後ろめたさが、記憶のどこかに刻みつけられているのだろう。これも放蕩の青春の報いだろう。

大学に通わず、勉強もせず、したがって試験にも合格せず、卒業論文も書かず、しかし偽りの学歴を騙(かた)って、国権の最高機関である衆議院において議席を得、大臣に任ぜられ、その地位によって、他の国の、それも国立大学より、バックデイトされた卒業証書を与えられたことを称して、「卒業」と言えるのかどうか。果たして、それを裁くのは、司法の役目だろうか。それとも、有権者の役目だろうか。いや、僕は思う。本人が、自分自身という裁判官の前で、証言するしかない。判決を下すのは、自分自身だ。都知事は、僕とほぼ同年齢だ。人生という春夏秋冬の果てにたどり着いた今だから、僕は確信をもって、そう言えるのだ。

インドという、エジプトと同じく古い歴史をもち、独特の文化の中で生きる数多くの国民を抱える国は、長い眠りから覚め、未来に向かって躍進しようとしている。そのエリート工科大学で学ぶ学生たちの青春群像を描いたのが『きっと、うまくいく』だ。ジャンルとしては、「コメディ」に分類されている。

映画のオープニングは、離陸寸前の機中で、約束を思い出した男が、とっさの機転で、仮病を使って離陸してしまった飛行機をUターンさせ、空港から逃げ出すシーンだ。コメディとは言え、このような笑うに笑えないような悪ふざけに付き合わされるのかと思って、DVDの残り時間を見ると、まだ三時間弱もあるではないか! しかし、皆さんもここでDVDを取り出さないでほしい。この映画が問うているのは、「試練」なのだ。

映画は、そこから嘘で塗り固められた主人公(当時44歳のアーミル・カーンが、大学の新入生を演じている)の半生を、大学時代とそれから10年後の現在から描いてゆく……。

ある地方のマハラジャ(豪族)は、学歴コンプレックスで、息子には何としてもエリート工科大学を卒業して欲しいと思っている。しかし、息子は頭が悪く努力もしない。そこで、目をつけたのが、屋敷で庭の世話をしている下層民の息子だ。工学に興味があり、抜群に頭が良い。そこで、その下層民を息子の身代わりとしてエリート工科大学に入学させる。無事に卒業証書を持って帰ってきたら、そこでお役御免。そこそこの金を渡して、目立たぬように、ひっそりと人生を送らせる……。

ところが、この主人公、頭が良いどころではなく、大した努力もせずに、大学を首席で卒業してしまう。しかも、学生たちの自由を奪い、世の中の悪しき慣習への迎合を強いる学長に堂々と反旗をひるがえし、なんと学長の美しい娘と恋に落ちてしまう。身代わりで大学生になった主人公にとって、学生生活は「偽りの竜宮城」だったのだ。

首席卒業の卒業証書をマハラジャのバカ息子に献上し、その代償にわずかばかりの報酬を渡されて、インド北部の寒村に追いやられた主人公。そこで、貧しい子供たちを教える小学校の教諭をしているという。大学時代には輝いていた主人公も、10年の時を経て、社会の片隅できっとしょぼくれて暮らしているに違いない。大学時代の友人3人と、元の恋人である学長の娘が、主人公を訪ねる場面が、映画のエンディングだ。ヒマラヤの神々しい山々が遠望される景色が美しい。

大学時代には、数々の出来事があった。天真爛漫な発明家だった先輩学生は、その夢のアイデアを学長に否定され、自殺してしまう。親の期待を一身に背負った学生は、カメラマンになるという夢を語って、親を絶望させてしまう。極貧の家庭出身の学生は、一流企業に就職して親孝行したいという思いだけで、ひたすら真面目に勉強してきたが、卒業試験に落第したことに絶望し、投身自殺を図り半身不随の怪我を負ってしまう……。この映画は、本当に「コメディ」だろうかと、疑ってしまう。バルザックは、たしかに『人間喜劇』と言ったものだが。

数々の悲劇が起こる。そのたびに、主人公は、ヒンディー語で“Aal Izz Well”(アール・イーズ・ウェル)と、おまじないを唱える。そして、小さな奇跡が起きるのだ。「アール・イーズ・ウェル」とは、インドがイギリスに統治されていた当時、夜警が街を回りながら叫んでいた"All is Well"から来ていると言う。つまり『きっと、うまくいく』だ。

エンディングの、どんでん返しは言うまい。オープニングのドタバタと同様、この映画の価値は、そこにあるのではない。スティーヴン・スピルバーグは「3回も観るほど大好きだ」と絶賛し、ブラッド・ピットは「心震えた」とコメントした。

僕は、この作品を観ることを「試練」だと書いた。分かっていただけたと思うが、退屈な映画を3時間見させられることが「試練」だということではない。人生は、「試練」だということだ。「試練」とは、英語でいえば"Trial"、すなわち裁きの場に立つことだ。そこで問われることは、常にひとつである。「自分に正直に生きるか?」 3時間かけて、そのことを教えてくれるのである。スティーヴン・スピルバーグもブラッド・ピットも、そのことをこのインド映画から教えられたのだろう。

東京都知事には、『きっと、うまくいく』を観ることをお薦めしたい。「忙しいから」などと言わずに、「試練の3時間」に向き合ってくれたらと思う。