改正湯(三之湯) | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

改正湯(三之湯)

大田区西蒲田五丁目の「改正湯」に浸かってきた。

まず、その「改正」という名前に怯(ひる)んでしまう。

「不適当」や「不備」を改めること……うーむ、風呂に浸かって、「改正」するとはどういうことなのだろうか。

素直に考えれば、体の不具合を治してくれる効果ということなのだろうが、こちとら、どうしても精神論に走ってしまう。

僕のように「不適当」で「不備」な人間の入浴を、改正湯は許してくれるだろうか、とか。

 

恐るおそる番台に行くと、物静かな高齢の女性がおられて、とがめられることなく(笑)入ることができた。

平日とはいえゴールデンウィーク中なので、いつもとは多少客層も違うのではないだろうか。

普段なら、客はだいたい高齢者なのだが、今日は40~50歳代とおぼしき人も結構いた。

さらには、外国人とおぼしき若い父親と幼稚園くらいの子供連れがいた。

父親の顔は、ダルビッシュ投手のような美男子だったので、きっとそちらの方の出身だと思う。

 

改正湯の特徴といえば、富士山の壁画の下と湯船の間が、ガラス張りの水槽になっていて、無数の金魚が泳いでいることだろう。

寒い時期には、チョウザメが水槽にいることもあるそうだ。冬になったら、再訪してみようと思う。

 

この大田区西蒲田という地域は、昔は蒲田区女塚と呼ばれていた。

女塚で少年時代を過ごし、その思い出を万感の想いをこめて綴ったのが小沢昭一の『わた史発掘』だ。

活気に満ちた、それでいて哀愁を帯びた、戦前の東京の下町が見事に描写されている。

以前、『伝統話芸・講談のすべて』を紹介した時に、その著者である阿部主計先生と小沢昭一の関係に触れた。

お二人の関係についても、『わた史発掘』の中でユーモラスに語られている。

 

戦前の女塚で少年時代を過ごした小沢昭一。僕は、戦後の西六郷で少年時代を過ごした。

阿部主計先生は、蒲田近くの志茂田中学校で、教鞭をとられていた。

 

僕らが子供の頃、祖父は「明治は遠くなりにけり」と嘆いていた。

令和の時代に古希を迎えた僕は、銭湯の湯船に浸かりながら「昭和は遠くなりにけり」と嘯(うそぶ)いている。