トラック野郎・度胸一番星:聖母マリアを追い求める巡礼者 | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

トラック野郎・度胸一番星:聖母マリアを追い求める巡礼者


トラック野郎・度胸一番星
監督:鈴木則文
企画:高村賢治、天尾完次
脚本:澤井信一郎、野上龍雄
出演:菅原文太、愛川欽也、片平なぎさ、夏樹陽子、八代亜紀、千葉真一
音楽:木下忠司
撮影:飯村雅彦
1977年 日本映画

令和6(2024)年の最初のひと月はあっという間に過ぎ、2月に入ってしまった。
元旦に大地震が起こるなどということが、日本の歴史上あっただろうか。
365分の1の確率と言ってしまえばそれまでだが。

山は裂け 海は浅せなむ 世なりとも
君にふた心 わがあらめやも

源実朝『金槐和歌集』の中の一首がどうしても頭に浮かんでしまう。
鎌倉が大地震に見舞われた時に詠まれたという。自然災害や天変地異について語る上の句は、下の句に至って、きわめて人間くさく転調される。
もちろん「君」とは君主である後鳥羽上皇のことだ。自然災害や天変地異は避けることができなくても、自分の忠誠心は変わることなく守っていきますという決意表明なのだろう。
しかし、その裏には、自然災害や天変地異によって、人心が乱れ、裏切りや陰謀が横行している現実が見え隠れする。
派閥だの裏金だの、それに加えて芸人のご乱行だの、鎌倉時代と今を比べて、われわれは何の進歩もしていないことに、唖然とする。

大地震だの、大災害になっても不思議ではない飛行機事故だのにかき消されてしまったが、年が明けて数日後、昨年末に歌姫・八代亜紀が亡くなっていたことが報じられた。
現代の歌謡曲における「歌唱」は、古代の「祈祷」あるいは霊を憑依させる口寄せに通じると、僕は思っている。だとすれば、現代の歌姫たちは、古代の卑弥呼だろう。
若き日に、深夜のドライブをしながらカーラジオから流れ出てくるひと節に心を揺さぶれた経験は、僕だけのものではあるまい。そして、八代亜紀は昭和50年代における卑弥呼であった。彼女が統治したのは、全国津々浦々を走行するトラック野郎たちであった。

どうしても、観なおしたくなって『トラック野郎・度胸一番星』のDVDを再生した。シリーズ第5作、昭和52(1977)年夏のお盆映画だ。
監督・鈴木則文は、著書『新トラック野郎風雲録』の中で、この『度胸一番星』への格別の想いを語っている。長くなるが引用しよう。

好きか嫌いか……ではなく、今でも一番心に深く残っているマドンナはいる。それは新潟佐渡編の『度胸一番星』の乙羽水名子である。
彼女以外のマドンナたちは、その後それぞれの人生をしっかり生きて幸福な人生を歩んだと思われるが、初めからこの世に生まれることを許されることがない「水児」であった水名子は、台風の土石流にのみ込まれこの世を去っていく。
桃次郎の妻になりたいというひと筋の慕情を胸に抱いて、振られるために映画に登場してきた
ような星桃次郎にとって、この乙羽水名子との想い出はいつまでも心に残り続ける〈聖母マリア〉の残像であろう。
花火が夏の夜空を彩る新潟祭の夜、二つ折りの編笠と浴衣姿で佐渡おけさを踊った水名子役の片平なぎさの可憐な顔は、私の監督生活のなかで終生忘れ難い〈マドンナ〉の顔であった。
……マドンナの黒き瞳に映りたる恋の巡礼ファーストスター

還暦を過ぎた男がここまでプラトニックな文章を綴れるものか……僕は、心底から、鈴木則文を尊敬する。彼は、大監督でも巨匠でもなかったかもしれない。東映という会社に勤めたサラリーマン監督だったかもしれない。しかし、仕事をする男にも、五分の魂が宿っていることに賛辞を贈りたい。

それにしても、片平なぎさの妖しいばかりの美しさはなんだろうか。当時は、まだ高校3年生。片平なぎさもまた、卑弥呼の末裔だったのだろうか。フィルムという媒体が介在すると、その人のもつ本質的な美しさが浮かび上がる。だとしたら、女性の最高の美しさは、現実の成熟より前に、スクリーン上の映像となって現れるものなのかもしれない。

この映画を観ながら、僕はいまだに昭和の世界の中で生きていることを実感するのだが、監督・鈴木則文、一番星・菅原文太、やもめのジョナサン・愛川欽也、ジョーズ・千葉真一、紅弁天・八代亜紀……これらの方々はことごとく鬼籍に入られた。
しかし、平成・令和を生きる若い人たちに言っておきたい。鎌倉時代と現代とが、何の変りもないように、昭和と平成・令和などまったくの同時代なのである。
あの頃は、スマホはなかったかもしれない。『トラック野郎』では、手紙と公衆電話がコミュニケーションの主役である。『トラック野郎』には、様々な糞尿譚が登場する。たしかに、あの頃の地方のドライブインでは、水洗トイレなど普及していなかったし、ましてやウォッシュレットなど、影も形もなかった。
繰り返すが、人間の本質は変わらないのだ。社会システムも経済システムも、先端技術も文明の利器と呼ばれる様々なガジェット(道具)も、すべては幻想なのだ。裸で生まれた人間が、やがて何も持つことを許されず旅立つように。

『度胸一番星』には、唐突に原発反対運動が登場する。映画の主な舞台は、新潟(佐渡)と石川(金沢)だった。ジョーズ・千葉真一の故郷で進められている原発建設計画。それに反対する村の老人たちを助けて、ジョーズが建設準備事務所をトラックでぶっ潰す。あの村のモデルは、柏崎刈羽原子力発電所だったのだろうか。それとも、計画段階で頓挫してしまった巻原子力発電所だったのだろうか。
活断層だらけの新潟、石川、さらには福井の海岸沿いには、『トラック野郎』から50年を経て、原発が立ち並んでいる。地質学者など、屁のつっぱりにもならない。その地に根ざした古老たちこそ、すべてをお見通しなのだ。

最後は、やはり「愛」について。
星桃次郎は、自らの所有する大型トラックを駆って日本中を旅する巡礼者だ。
巡礼が一段落するたびに、桃次郎は、「トルコ」に寄港する。あの頃、ソープランドは「トルコ」と呼ばれていた。「トルコ」では、かの国に対して失礼であるという言葉狩りにあい、今は薄っぺらいソープランドなどという呼び名になってしまった。トルコ風呂は、フランス画壇の巨匠アングルの代表作としても有名なくらい、立派な無形文化財のはずなのだが。
桃次郎は、輸送中の貨物がメロンやスイカであれば、ちゃっかりとそれらを荷抜きして、トルコ嬢たちへのお土産として持参するから、彼女たちとは大変良好な関係を築いている。今では考えられないくらい大っぴらに「トルコ」内部が描かれているが、男女は一種の同志であり、その関係は実に明るく開放的で健康的だ(笑)。
鈴木則文も書いているように、星桃次郎の「愛」の対象は、あくまでも「マドンナ」である。したがって、『トラック野郎』シリーズ全10作品で、「愛」が成就することは一度もない。それが「愛」の本質なのだと、この歳になってあらためて実感する。

八代亜紀演ずる紅弁天が、場末のドライブインで歌う『恋歌』。

……激しいばかりが恋じゃない
二人でいたわる恋もある
ねえあなた
しっかり抱いていてよ
私ひとりが嵐の中へ
押しながされてしまいそう……

歌声が胸に沁みる。荒くれ者のトラック野郎たちがしんみりと聴き入っている。
幻だからこそ「愛」は美しい。
決して得られないからこそ追いかけてしまう。
自然災害にも天変地異にも、「愛」は負けない。
蔵出しの『度胸一番星』から元気と勇気をもらえた。
天上から見下ろす鈴木則文監督や菅原文太をはじめとするスタッフ・キャストの方々に感謝を捧げたい。