日本の黒い夏─冤罪:忘れられたメッセージ

日本の黒い夏─冤罪
監督:熊井啓
脚本:熊井啓
原作:平石耕一
製作:豊忠雄
製作総指揮:中村雅哉
音楽:松村禎三
撮影:奥原一男
編集:井上治
2001年 日本映画
冒頭のクレジット・タイトルの背景に流れる松本の風景が、限りなく美しい。
松本は、熊井啓の故郷だ。
熊井啓にとってこの作品が、単に社会問題にメスを入れるだけでなく、故郷への思い入れでもあるからだ。
本作は、オウム真理教による松本サリン事件を描いている。
しかし、事件を起こしたオウム真理教は「カルト集団」として語られるだけで、登場しない。
描かれるのは、河野義行(映画の中では、寺尾聰が演じた神部俊夫)をめぐる、冤罪騒動だ。
神部俊夫は冤罪騒動の被害者であり、その加害者は、警察であり、報道機関であり、一般市民である。
カルト集団は、たしかに悪い。しかし、真に恐ろしいのは、正義の味方だと思っていた警察であり、報道機関であり、それらを信頼し、踊らされる一般市民なのだ。
熊井啓は、初期の作品である『帝銀事件 死刑囚』や『日本列島』、その後の『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』などで、繰り返しそれらを描いてきた。
いずれも、終戦直後の混乱期の事件が下敷きになっている。
そこに発生したのが、松本サリン事件だ。
陰謀と冤罪をテーマにしてきた熊井啓にとって、リアルタイムでそれを描く絶好のチャンスだったのだろう。
犯人を見つけ出すことが、いつからか犯人を作り出すことに変容してしまい、それに気づいていながら警察権力の巨大な慣性モーメントに押し流されて行かざるをえない哀れな警部を演じる石橋蓮司。
河野氏を犯人と決めつけるような報道に対して、慎重な姿勢を取る地元テレビ局の報道部長を演じる中井貴一。しかし、その善人ぶりの裏には、巧妙な処世術が見え隠れする。
この映画を救っているのは、松本サリン事件の捜査と報道の過程を検証しようとする、地元の高校生の存在だろう。
全国高校放送コンテストで優勝した、長野県松本美須々ヶ丘高等学校放送部が制作したドキュメンタリービデオ作品『テレビは何を伝えたか』が下敷きになっている。
取材する高校生が、作品全体の狂言回しになっている。演じているのは、遠野凪子だ。
熊井啓はインタビューで遠野凪子の感性をほめているし、遺作となる次の作品(『海は見ていた』)では主役に抜擢している。
確かに彼女の前を見据える目は美しい。正義を振りかざしながら、その実、人権を無視し、自由を軽視するような、警察や報道機関を監視するのは、濁りのない若者たちの目でなければならない。
『日本の黒い夏─冤罪』が公開されてから、すでに20年以上が経過した。
熊井啓が他界してからも、15年以上が経った。
彼のメッセージは、もう忘れ去られたのだろうか。
そして、遠野なぎこ(凪子から変名)の視線は、どこに消えたのだろう。
たとえば、一国の宰相が狙撃され暗殺されるという大事件。
あれも、夏だった。
しかし、警察はどうだっただろうか。報道機関はどうだっただろうか。
恥ずかしくないのか。
そう問う者さえいなくなったのか。
天上から見守っている熊井啓は、何を思うのだろうか。
警察も報道機関も正義など振りかざさなくてもよい。
せめて、「真実」をわれわれ一般市民に提示し、判断を委ねてほしい。
権力を持つものは謙虚でなければならないと言うではないか。
若者たちの視線を正面から受けなければならないのだ。