AKIRA:大友克洋の「コギト・エルゴ・スム」 | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

AKIRA:大友克洋の「コギト・エルゴ・スム」


AKIRA
監督:大友克洋
脚本:大友克洋、橋本以蔵
原作:大友克洋『AKIRA』
製作:鈴木良平、加藤俊三
音楽:山城祥二
撮影:三澤勝治
編集:瀬山武司
1988年 日本映画

大友克洋は、1954(昭和29)年、宮城県登米郡迫(はさま)町に生まれた。
僕は東京生まれだが、同学年ということになる。
幼少期より漫画に親しみ、中学時代に漫画家をこころざし、高校時代は映画漬けの日々を送る……なぜか、重なるところがあるが、これは僕と同世代の人たちの多くが持つ共通項だろう。
しかし、映画漬けと言っても、当時はまだビデオもない。僕は東京でミニシアターにも行けたし試写会にも行けたが、当時の登米郡迫町の映画環境は、限られたものだったはずだ。
1973(昭和48)年、大友は高校を卒業して上京し、僕は大学入学のため仙台に向かった。
東北本線で、大友と僕はすれ違ったのだ。

今や大友克洋は、世界中あまたの栄誉に浴し、フランスの芸術文化勲章オフィシエを授与されるまでになった。
おなじ芸術文化勲章であっても、シュヴァリエ(騎士)ではなく、オフィシエ(士官)である。この上は、コマンド―ル(騎士団長)しかない。
日本の多くの芸術家気取りがどれだけよだれを垂らしても、その選考基準は厳しく、おいそれと手に入る勲章ではないのだ。

東北本線でのすれ違いが、大友と僕の人生を分けたのではない。
決定的な違いは、才能だ。
天才と凡人の差だ。
天才は努力の結晶と言われるが、それは凡人への慰めの言葉でしかない。
努力すれば天才になれるのではない、天才には努力する才能も備わっているということだ。

上京後10年間の努力により、大友克洋の天才は完全に開花した。
1982(昭和57)年に劇画版『AKIRA』を週刊ヤングマガジンに連載開始。
そして、大友が満を持して世に問うたのが、1988(昭和63)年公開の劇場版アニメーション『AKIRA』だ。

僕は最初『AKIRA』に石井聰亙の『狂い咲きサンダーロード』(1980年公開)の臭いを感じ取ったものだ。
「暴走族」「改造バイク」「近未来」「アナーキズム」などのキーワードから紡ぎ出されるカオスの世界。
しかし、大友克洋の世界観(というか生命観とか宇宙観)は、あえて言わせてもらえば、石井聰亙の比ではなかった。

石井聰亙もわれわれとほぼ同年代である。
『狂い咲きサンダーロード』の世界観には、バクーニン的なアナーキズムが通底していると僕は感じたし、それは決して悪くはない。というか、僕は、むしろ好きだ。
しかし、大友克洋の『AKIRA』は、アナーキズムだとかイデオロギーを超越しているのだ。
登米郡迫町で純粋培養された天才にとって、政治や信条など、些末なディテールでしかない。
『AKIRA』の背景に描かれる、街の汚れた看板や機械の錆びた部品のような。

それにしても……と嘆息してしまう。
今、30年以上も前に作られた『AKIRA』を観て思う。
天才のイマジネーションとは、怪物のようなものだな、と。
何より、カメラアングル、構図の作り方に驚かされる。
もちろん、多くの先達の映像作品のヒントの上に成り立っているのだが、あらゆるカットに大友イズムが横溢しているのだ。
大友克洋は、長編アニメーションのデビュー作品で、すでにディズニー、手塚治虫、宮崎駿らの先に行ってしまった。

映像(アニメーション)だけでも、大友克洋の業績は、フランス芸術文化勲章評議会に十分評価されたと思う。
その上で、大友が『AKIRA』の中で必死に訴えようとしながら、もどかしいほど中途半端だった部分に惹かれるのである。
大友は天才絵師なのである。
葛飾北斎がそうであったように、丸山応挙がそうであったように。

大友克洋は、デカルト言うところの「コギト・エルゴ・スム(我思う,故に我あり)」を作品に込めることができる数少ない芸術家の一人なのだ。
『AKIRA』の中で語られる「未来は一方向だけに進んでいるわけではない。私たちが選ぶことができる未来も……」が、そのヒントだろう。
量子力学的宇宙観が、水平線のかなたに見えるような、エンディングだった。

大友よ、長生きしてくれ。
俺のことなどどうでもよい。同年齢として、お前には長生きしてほしい。
そして、その類まれな技法とセンスをもって、自身の内的世界を表現してほしい。
『AKIRA』は、その序章に過ぎなかった。
「これが、俺の宇宙観だ」そう言えるような作品を待っているぞ。