残像:自由のために死ねるか | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

残像:自由のために死ねるか


残像
Powidoki
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本:アンジェイ・ムラルチク、アンジェイ・ワイダ
製作:ミハウ・クフィェチンスキ
製作総指揮:マウゴジャータ・フォゲウ=ガブリス
出演者:ボグスワフ・リンダ
音楽:アンジェイ・パヌフニク
撮影:パヴェウ・エデルマン
編集:グラジナ・グラドン
2016年 ポーランド映画

今年(2021年)も残すところ数日となった。
われわれは、本人の意思とは無関係に、歴史の流れの中で生きている。
2021年は、われわれにとってどういう年だったのか。
昨年(2020年)と来年(2022年)と今年は何が違うのか。
すべてが異なっており、何ひとつ同じことなどない。
しかし、われわれ人類の脳内においては、歴史認識に強烈なバイアスとフィルターがかかっているので、大抵の人は僕も含めて、今年も大過なく過ぎたなという感慨を抱くのである。

そういう年の瀬にふさわしい映画を紹介しよう。
アンジェイ・ワイダ監督の遺作、『残像』だ。
この映画が公開された直後、アンジェイ・ワイダは90歳で亡くなっている。

この映画は、アンジェイ・ワイダが自身の生涯を自己批判した作品だと僕は思う。
『残像』の主人公であるポーランドの前衛芸術家、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキは、1952年に病気と貧困に苛まれて59年の生涯を閉じた。
1945年に第二次世界大戦が終結し、ポーランドがナチスから「解放」されてから、わずか7年後だ。
「解放」された祖国でストゥシェミンスキを待っていたのは、ナチス占領下よりもさらにひどい自由への迫害だった。

圧倒的多数の人々は、自由と生存というふたつの概念を、天秤にかけてしまう。
芸術家であっても例外ではない。
自由を選ぶか、生存を選ぶかと問われれば、多くの人は躊躇なく生存を選ぶだろう。
そして、体制側から与えられた、口当たりの良い言い訳に逃げ込むのだ。
わざわざ専制国家だと名乗らなくても、地球上のほとんどの国において自由は深刻な状況に置かれている。

アンジェイ・ワイダは、戦後の社会主義国家ポーランドにあって、反体制の旗手と位置づけられてきた。
30歳になるかならないかで撮った『地下水道』や『灰とダイヤモンド』など初期の作品群には、強烈なインパクトがあった。
その後も、多くの名作や問題作を発表し、やがて「巨匠」となっていった。

僕は思うのだ。
本当に、アンジェイ・ワイダが妥協を許さない反体制派の人だったら、おそらく彼は90歳まで生きられなかっただろう、と。
そのことは、アンジェイ・ワイダ自身が、一番よく分かっていたはずだ。
反体制派を自認する芸術家と、国家権力が、どのように妥協点を見出してゆくのか。
もっと踏み込んで言えば、どのようにしてお互いの共通の利益を追究するのか。

ソビエト連邦および東欧の社会主義国家が崩壊した後、アンジェイ・ワイダは一時スランプに陥った。
それはそうだろう、彼のような「体制の中の反体制派」の立ち位置にいた人間にとっては、難しい時期だったと思う。
おそらく、彼は、自らの心の中で自己批判を行い、総括を行ったのだろう。
その結果、たどり着いたのが、80歳を過ぎてから発表された最晩年の作品群であり、その最後を飾ったのが『残像』というわけだ。

僕は自問する。「自由のために死ねるか」
令和元禄の狂い水に酔い痴れる日本には、そもそも「自由」などない。
自分たちは「自由」だと思っているところからして、すでに狂っている。
お隣の独裁国家と違って、自分たちは自由な国に生まれて幸せだ、などと信じているのだからおめでたいものだ。

アンジェイ・ワイダは、自問の末に、「自由のために死ねるか」という命題にたどり着いたのだろう。
彼は、死ねなかった。
せめてもの贖罪のために、彼は自らの悔いを『残像』という作品として残したのだと思う。

「自由のために死ねる人」、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキのような人がいなくなったら終りだ。
これが、アンジェイ・ワイダの遺言だろう。
令和元禄のわが祖国日本は、アンジェイ・ワイダの問いかけにどう答えるのだろう。

令和3年もまた、何事もなかったかのように終わろうとしている……。