バベル:魂は言葉によって救済されるのか | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

バベル:魂は言葉によって救済されるのか

バベル
Babel
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
脚本:ギレルモ・アリアガ
原案:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、ギレルモ・アリアガ
製作:スティーヴ・ゴリン、ジョン・キリク、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
出演:ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、菊地凛子
音楽:グスターボ・サンタオラヤ
撮影:ロドリゴ・プリエト
編集:ダグラス・クライズ、スティーヴン・ミリオン
2006年 アメリカ映画

新共同訳旧約聖書『創世記』の第11章には、こう書かれている。
「……こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである……」

それ以来、われわれ人類は、いまだに混乱し続けている。
単に、異なる言語を話しているからではない。
たとえ同じ日本語を話していたとしても、われわれはお互いに理解し合えていると言えるだろうか。

人類全体が、コミュニケーション障害を抱えた猿なのだ。
親子でさえ、コミュニケーションがとれない。
夫婦であっても、恋人同士であっても、決して満足な意思疎通がとれない。
ゲマインシャフトの世界にあってもそうなのだから、会社組織などのゲゼルシャフトにおいてはましてや、である。

人類は、「知恵」と引き換えに、「意思疎通」を手放してしまったと言えないだろうか。
それを見抜いたのが、古代のユダヤの神であった。
現代の社会システムにおいては、サイエンス、エンジニアリングにしても、芸術の分野においてさえ、「言葉」は不可欠である。
「知恵」を共有するために「言葉」という「道具」を使い始めた人類は、「意思疎通」という「能力」を失ってしまったのだ。

あなたは「言葉を尽くせば、意思は通ずるではないか」と反論するだろうか。
偉大な文学を待つまでもなく、正確な文法と語彙を操ることによって、意思疎通は可能であると。
確かに論文の指導において、われわれは事象と知見を正しく伝える能力を鍛えられた。
しかしそれは、真実の外皮だけであり、内奥ではなく、ましてや核心ではない。

言葉を巧みに操ることができる者が幸せになれるわけでもない。
最近、人間国宝の落語家が亡くなった。
若い頃の彼は、飄々とした風貌で、切れ味のある落語を語っていた。
晩年において、功成り名遂げた彼の風貌は、どのように変化したか。
馥郁としたところがまるでない、絶望の風景を見てきた男の顔だった。
言葉を操る者が、言葉の地獄を見てしまったということだろうか。

『バベル』は、決して大衆受けする娯楽作品とは言い難い。
ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェットという人気スターを連れてきても、多くの人の足を映画館に向かわせることはできないだろう。
映画に大衆娯楽と芸術表現の両面があるとするならば、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は常に、彼自身の芸術表現に重心を置いている。
初期の『バベル』において戸惑った観客も、彼の『バードマン』においては、イニャリトゥ監督に対する理解が進み、喝采を送った。

2時間20分あまり。
ぜひ、正座して画面に対峙してほしい。
カウチに寝ころんでポテトチップスを頬張りながらでも良い。
意識として、この作品と真剣勝負してほしいという意味だ。
もちろん「形から入る」に越したことはない。
僕は、居ずまいを正して、『バベル』を鑑賞した。

あらすじについては、語るまい。
いや、あらすじがあるわけではない。
地球上の異なる場所で、時間を共有しつつ進行する、まるで異なる状況。
しかし、その一見異なっている状況が、実は互いに「共鳴」している。
これが、イニャリトゥ監督のメッセージだろう。

この「共鳴」をわれわれは認知することができない。
「言葉」に頼りすぎて、本来の「意思疎通」の能力を失っているからだ。
唯一の希望が示されるとすれば、その象徴が菊地凛子が演じる聾唖の少女だろう。
ねたばれにはならないだろう。
聾唖の少女は、性愛によってコミュニケーションをとろうとする。
これは、イニャリトゥ監督のヒントだろう。

後味は、けっして悪くない。
少なくとも、僕にとって、悪い後味ではなかった。
「言葉」に対して、謙虚になることだ。
政治家も然り、落語家も然りだ、そしてわれわれすべてが。

『ヨハネによる福音書』には『創世記』とは、一見矛盾することが書かれている。

「……初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった……」
神は言葉を乱されたが、実は言(ことば)こそ神であった。
言葉によって不幸のどん底に突き落とされることもある。
言葉によって魂を救済されることもある……ということなのだろうか。