夜の大捜査線:ロッド・スタイガーの演技が光る教養映画 | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

夜の大捜査線:ロッド・スタイガーの演技が光る教養映画


夜の大捜査線
In the Heat of the Night
監督:ノーマン・ジュイソン
脚本:スターリング・シリファント
原作:ジョン・ボール
製作:ウォルター・ミリッシュ
出演:ロッド・スタイガー、シドニー・ポワチエ、ウォーレン・オーツ
音楽:クインシー・ジョーンズ
撮影:ハスケル・ウェクスラー
編集:ハル・アシュビー
1967年 アメリカ映画

後年わが国では、『踊る大捜査線』なるテレビドラマシリーズが製作され、映画にもなった。
その元ネタとなったのが、『夜の大捜査線』だ。
たしかに『踊る……』は、常に派手な舞台設定の「大捜査線」が登場するのだが、本家本元はといえば、これが期待外れなのだ。
やはり原題である"In the Heat of the Night"が正しく、どこにも「大捜査線」は出てこない。
「大捜査線」を期待される未見の方には、ご注意申し上げたい。

物語は、ある夏の一夜、ミシシッピ州の田舎町スパルタで起きた、殺人事件から始まる。
ちなみに、ミシシッピにスパルタという町は存在しないが、本作品のロケ地がイリノイ州「スパルタ」だったのだ。
実在する町の看板や道路標識など、なるべくそのままで撮影しようという魂胆だったのだろうか。

まったくやる気のない地元警察は、ごく当たり前に不良少年を別件逮捕し、ごく当たり前に彼を殺人犯として送検しようとする。
そこに現れるのが、たまたまスパルタの駅で列車を待っていた、フィラデルフィア警察殺人課のティッブス刑事(シドニー・ポワチエ)だ。
ティッブスは黒人だ。
1960年代のミシシッピの田舎町に、黒人の刑事が現れ、殺人事件の捜査を始めたらどういうことが起こるか。
その緊張感が、この作品のテーマなのだが、まあ安易といえば安易な登場の仕方なのである。

そもそも、所轄がまったく違うフィラデルフィア警察の刑事が、行き当たりばったりでミシシッピで起きた事件を捜査するものか。
なぜティッブスが捜査に組み込まれて行くか、その辺の説明も出てくるのだが、取ってつけた感は否めない。
ティッブスが真犯人を追い求めていく過程も、決して良い出来の謎解きとは言えない。
ノーマン・ジュイソン監督の意図は、フィルム・ノワール(犯罪映画)ではないのだ。
大きな矛盾を包含したアメリカ社会の断面を、南部ミシシッピの片田舎の暑苦しい夏の一夜の出来事として、切り取って見せる。
その断面からは、様々な人間の、悲しさ、愚かさ、醜さ、怒りなどが、汚物のように流れ出してくる。
しかし一方で、人間に対する、慈愛に満ちた眼差しや、かすかな希望も、垣間見える。
それゆえに、この作品は、AFI(アメリカ映画協会)が選ぶ歴代ベスト100作品の上位に選ばれているのだ。

中でも、スパルタ警察署長ギレスビーを演じるロッド・スタイガーが素晴らしい。
彼は、この作品でアカデミー最優秀主演男優賞を受賞している。
映画の冒頭、登場してくるギレスビーは、粗野で無教養、差別意識むき出しの野獣である。
ロッド・スタイガーの演技力は『ドクトル・ジバゴ』で実証済みだが、作品全体を振り返った時、この冒頭の演技が実は精緻に計算されたものだったことがわかる。
あるいは、映画の半ばで、ティッブスがギレスビーの家で、ふたりで語り合う場面。
ここでのギレスビーは、もはや狂犬の人種差別主義者ではない。
ふたりの会話は、まるでアイビーリーグを卒業した教養人のような、人間存在の矛盾と哀しみを踏まえた率直かつ真摯な語らいなのだ。

黒人刑事ティッブスと警察署長ギレスビーの出会いは、アメリカ社会における分断の象徴だろう。
ふたりは反発し合いながら、やがて理解と共感にたどり着く。
1967年のアメリカ、少なくとも良心的な映画人には、まだ分断を乗り越えようとする意志があったということだろう。
すがすがしい楽観主義が、ラストシーンに現れる。
なんと、ティッブスを自分の車で駅まで送り届けたギレスビーが、ティッブスの大きなトランクを自らホームまで運んであげるのだ。
アメリカ南部では、あり得ない光景だ。

そう、この作品は、リアリズムの手法を使った、おとぎ話なのだ。