ふるさと:伝三のように死にたい | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

ふるさと:伝三のように死にたい


ふるさと
監督:神山征二郎
脚本:神山征二郎
製作:大澤豊、神山征二郎、後藤俊夫
原作:平方浩介
出演:加藤嘉、長門裕之、樫山文枝
撮影:南文憲
音楽:針生正男
美術:小川富美夫
1983年 日本映画

神山征二郎という人は、つくづく真面目な人だと思う。
すべての作品を観たわけではないが、何というか「破」というものがない。
もちろん、一概にそれを悪いと決めつけているわけではない。
芸術一般がそうであるように、映画作りにおいても、その原点には個性があり、円満な個性が優れた芸術作品を生み出すわけではないからである。

しかし、少なくても商業映画の領域においては、「破」がないという個性はかなりのハンディキャップになる。
一時間半から二時間の間、チケットを買った観客を暗闇にとじ込めておくわけである。
「破」もなく「淡々」と過ぎていく映画は、興行には向かない。
別に金儲けをしろというのではない。
ただ、大衆受けしない作品を作り続ければ、自ずと製作の機会も減ってくる。
神山征二郎のような人の作品を、もう少し観てみたいと思う映画ファンは、私だけではあるまい。

『ふるさと』は神山征二郎監督初期の代表作だ。
日本のみならず海外でも、主演の加藤嘉はモスクワ国際映画祭の最優秀主演男優賞を受賞している。
「日本映画、不朽の名作」と形容されることもある。
だがことわっておく。
『ふるさと』を観るなら、覚悟をもって鑑賞してください。
けっして血沸き肉躍るような映画ではありませんから。

神山征二郎の真面目さは、脚本にも表れている。
破綻がない。しかし、それは老舗の会席料理とでも言おうか。
前菜、刺身、焼物、煮物、蒸物、ご飯と椀物、香の物、そして水菓子と。
美しい日本の山懐の風景、家族と隣人たち、老いと痴ほう、ダム(公共事業)と自然破壊、コミュニティーの喪失。
すべての要素が、居ずまいを正して端然と配置されている。
血を吐くような主張はない。

繰り返すが、だからといって『ふるさと』は観る価値がないなどと言うつもりはない。
むしろ逆だ。
『ふるさと』という作品世界の中で、観客ひとりひとりが、自分の『ふるさと』を見つけてほしい。

ぼくにとっての『ふるさと』は、加藤嘉の演じる痴ほう老人伝三だ。
老いを演じた名優は数多い。
たとえば、笠智衆など。
しかし、笠智衆に伝三は演じられまい。
三國連太郎でも無理だ。
松村達夫でもない。

モスクワ国際映画祭の審査員もみな、加藤嘉が本物の痴ほう老人だと思っていたそうだ。
それほどの迫真の演技なのだ。
いや、加藤嘉は「痴ほう老人」を演じたのではない。
「痴呆」や「認知症」などという診断名をつけて、人間を壊れた器械であるかのように扱う。
神をも恐れぬ、現代の魔女狩りとはこのことだろう。
加藤嘉の演技は、痴ほう老人を演じながら、尊厳に満ちている。

実の子供の顔と名前を忘れたくらいで、なぜ痴ほうなどと呼ばれなくてはならないのか。
自分の家への帰り道を忘れたくらいで、なぜ外出を禁じられ閉じ込められなくてはならないのか。
痴ほうを演じながら、加藤嘉の目は基本的人権を無言のうちに訴えている。
死の間際、一瞬霧が晴れたように正気に戻るのだが、何を隠そう痴ほうの陰には常に正気が存在しているのである。

高齢者の仲間入りをした僕も、いつかは痴ほうのレッテルを貼られるのだろうか。
そして尊厳を奪われ、基本的人権を侵されるのだろうか。
それでも、僕は伝三のように生きたい。
いや、伝三のように死にたい。
そんなことを考えさせてくれる映画だった、『ふるさと』は。