手錠のまゝの脱獄:常識的価値観の先にあるカタルシス | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

手錠のまゝの脱獄:常識的価値観の先にあるカタルシス


手錠のまゝの脱獄
The Defiant Ones

監督:スタンリー・クレイマー
脚本:ネイサン・E・ダグラス、ハロルド・ジェイコブ・スミス
製作:スタンリー・クレイマー
出演:トニー・カーティス、シドニー・ポワチエ
音楽:アーネスト・ゴールド
撮影:サム・リーヴィット
編集:フレデリック・ナドソン
1958年 アメリカ映画 

ネイサン・E・ダグラスは、脇役・端役として俳優をしながら、脚本を書き続けた。映画となった作品はそれほど多くはないが、赤狩りのブラックリストに載っていたつわものだ。
『手錠のまゝの脱獄』を観れば、その彼がおそらくどうしても書きたいと長年あたためてきた構想だったのだろうなと、ぴんと来る。
舞台にしても、面白い演出が考えられる。とても良く考えぬかれ、書きこまれた脚本だ。

スタンリー・クレイマーも、決して多作とは言えない。
いや、寡作と言ってもいいだろう。
本当に自分の撮りたい作品だけを作る。製作から入り、自分の中で作品の明確なイメージが結像した時には、監督もした。
そういう人だ。

トニー・カーティスとシドニー・ポワチエが素晴らしい演技を見せてくれる。
鎖の手錠につながれたふたりのうち、どちらかが目立っても、どちらかが見劣りしても、この作品は成り立たなくなる。
これほどのコンビは、黒澤明の『隠し砦の三悪人』における千秋実と藤原釜足か、『スター・ウォーズ』におけるR2D2とC3POくらいなものだろう。

原題の"The Defiant Ones"とは、反抗する者だ。何に対する反抗か。
最初は、囚人護送車からの脱走、つまり権力からの脱出から話は始まる。
それを追う保安官と、急遽かり集められた地元のハンターたちは、どれも俗物だらけだ。
鹿狩り(ディア・ハンティング)も脱獄囚狩りも、彼らにとっては同じ次元だ。
脱走したのが白人と黒人で、同じ鎖につながれていると聞いて、それなら追う必要はない。今ごろ二人は殺し合ってるさとうそぶく土地柄なのだ。

トニー・カーティスとシドニー・ポワチエは、走って走って走りまくる。
途中の町で、寝静まった夜に雑貨屋に忍び込んで捕まり、住民たちによってリンチにかけられそうになる。
1950年代には、アメリカの田舎町には、まだリアリティーとして、リンチが存在したのだろう。
そこでは、手首に手錠の跡のある(元囚人)男に助けられ、二人は一難を逃れる。

次には、人里離れた農場で幼い息子とふたりだけで暮らす女に出逢う。
そして、ここで二人は鎖を断ち切ることができる。物理的には。
トニー・カーティスは、あっという間に女と出来てしまう(笑)。
トニー・カーティスと女は、息子は親類に預けて、駆け落ちすることにする。

女は、シドニー・ポワチエに北部に向かう鉄道への近道を教えて送り出す。
実は、その近道には底なし沼がある。
それを知ったトニー・カーティスは、女を振り切ってシドニー・ポアチエの後を追う。
つまり、すでに物理的には鎖は断ち切られたが、二人の間には心と心の鎖が結ばれていたという落ちだ。

ラストシーンで、列車に飛び乗り損ねた二人は、息を切らせながら肩を寄せ合う。
もう保安官も察している。二人の間に心の絆ができていることを。
刑務所に引き戻さることによって、おそらく二人はさらに長い刑期を宣告されるだろう。
しかし、二人の表情はとても晴れやかだ。
常識的価値観を打ち破った先にあるカタルシスだろう。