戦艦シュペー号の最後:現代の戦争における英雄は兵器である | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

戦艦シュペー号の最後:現代の戦争における英雄は兵器である

戦艦シュペー号の最後
The Battle of The River Plate


監督・製作・脚本:マイケル・パウエル 、 エメリック・プレスバーガー 
撮影:クリストファー・チャリス 
特殊効果:ビル・ウォリントン 、 ジェームズ・スノウ 
音楽:ブライアン・イースデル 
出演:ジョン・グレグソン、アンソニー・クェイル、ピーター・フィンチ、イアン・ハンター
1956年 イギリス映画


戦争は絶対悪だと僕は繰り返し書いてきた。
この信念は、おそらく死ぬまで変わらないだろう。
しかし、人類の歴史が、戦争の歴史とほぼ同義であることもまた否定しようのない事実だ。
そして、戦争を始める理由の大半は、平和と安全の希求なのだ。


ジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』の中で渾身の力で描きたかったのは、人類の愚かしい本性だろう。
アナキン・スカイウォーカーを主人公とした『エピソード1~3』は、まさに家族を愛し、家族を守るために、殺戮に身を委ねざるをえなかったアナキン(後のダースベイダー)の悲劇だ。
この人類の矛盾とどう向き合ったらよいのか、永遠に答えなど出てくるはずはない。
神話の時代から、戦争の図式はまったく変わらない。
個人的には、何の悪意も憎しみもない兵士たちが、平和のために殺し合うのが戦争だと定義するなら、その図式はまったく不変であり、少しずつ進歩するどころか、兵器の発達とともに、ますます残酷化、冷酷化している。


戦争は英雄を生む。
神話の時代は、個人が英雄になることができたし、神として崇められることもあった。
物質文明における戦争の英雄は、兵器だ。
日本人が、英雄と崇めるのは、いまもって戦艦大和と零式艦上戦闘機だ。


ドイツにおいては、ポケット戦艦「アドミラル・シュペー」がその代表だろう。
ヤマトタケルがそうであったように、英雄は強く、戦に勝たなくてはならない。
シュペー号には、十分にその資格を満たす戦績がある。
そして、これもヤマトタケルがそうであるように、悲劇の最期を遂げなくてはならない。
輝かしい戦績と悲劇的な最期が英雄の条件だとすれば、シュペー号は見事にその条件をクリアしている。


英雄は、敵味方を越えて、称えられる。
これも古今東西で変わらないのだろう。
第二次世界大戦終結から11年を経て、英国が敵国ドイツのシュペー号を主人公にした映画を作るのだから。
しかも、映画は一貫してシュペー号を英雄として遇しているのだ。


僕は、以前チャールズ・マケインの『猛き海狼』について書いたことがある。
『猛き海狼』も米国人のマケインがドイツの軍人を主人公にしたものだ(原題:誇り高いドイツ人)。
『猛き海狼』の主人公、ドイツ海軍中尉マックス・ブレーゲンドルフは、士官学校を出てすぐにシュペー号に配属され、栄光の戦績と悲劇的な最期を体験する。
『戦艦シュペー号の最後』で描かれた海戦シーンの中にきっと、若きマックス・ブレーゲンドルフがいたはずだ。


この映画は、アメリカ海軍の全面的な協力のもとに作られた。
日本だったら、円谷英二が模型の軍艦を使って迫真の特殊撮影を行うところだろうが、この映画では、本物の軍艦がドンパチと撃ち合うのだから、迫力が違う。
長さ百数十メートルほどの軍艦が、20キロほどの距離をへだてて、大砲を撃ち合う様は、まさに10メートルほどの距離でピストルを撃ち合う人間対人間の決闘そのものだ。

 

それにしても、と不満を言わせてもらう。

シュペー号はとても優美な姿をした軍艦だった。


それを、演じるのはアメリカ海軍の重巡洋艦セーレムだ。
だが……悪いが、このセーレムは艦影が美しくない。


ありしのシュペー号が貴婦人なら、セーレムはたしかに名のとおりオレゴンの田舎娘だ(セーレムはオレゴン州の州都)。


戦えなくなった武人は死を選ぶ。
これもまた、古今東西に共通する美学だ。
南米ウルグアイの首都モンテヴィデオに錨をおろしたシュペー号は、もはや戦うことはできない。
ラプラタ河の河口で、自沈する道を選ぶ。
切腹する武士の美学に通じるものがある。


ひとつ勉強になったことがある。
原題の"The Battle of The River Plate"。
The River Plateとは、何かと思ったが、ラプラタ河とは、プラタに定冠詞がついたものだったのね。
そういえば、西部劇で『赤い河』というのがあったが、あれは河が赤いのではなく、The Red Riverという河の名前だった。